14.【間話】現在地(ゼロ)の証明、あるいは泥濘の恋
公園のベンチに残った微かな体温。湊が立ち去ったあとの夜気は、結衣の頬を刺すように冷たかった。
彼女は自分の両手を見つめる。湊の肩に触れた感触、そして彼が最後に口にした、あの静かで、重い言葉。
「……バカみたい。本当に、私って最低」
自嘲の笑みが、白く濁った吐息とともに消えていく。
結衣は、莉央の親友として、彼女の「過去」を誰よりも知っていた。莉央がどれほど不器用に湊を想い、どれほど傲慢にその想いに胡坐をかいて、自滅していったか。
一方で、香織の「未来」も見てきた。同じ夢を語り、同じ高みを目指す、湊にとって最も理想的なパートナーとしての姿を。
「過去」にも「未来」にもなれない。
それでも、結衣は「現在」を掴もうとした。
莉央から「きっかけ」の断片を奪い、自分の心に鍵をかけて、湊がそれを思い出すことを必死に妨げようとした。もし彼が、あの日パティシエを目指した理由を忘れたままなら、今、隣で同じ制服を着て、同じバイト先で笑い合っている自分が選ばれるのではないか――そんな浅ましくも切実な、藁にも縋るような「現在」への執着。
けれど、限界だった。
莉央の泣き顔を見るたびに、胸の奥が焼けるように痛んだ。香織の真っ直ぐな瞳を見るたびに、自分が泥を啜っているような気分になった。
だから、伝えてしまった。
自分の恋を終わらせるかもしれない、決定的な「きっかけ」を。
「……でも、後悔はしてないよ。湊くん」
結衣は立ち上がり、大きく伸びをした。
湊が肩に手を置いた時、彼の瞳に宿ったあの光。あれこそが、結衣が恋をした「瀬戸湊」の真実だった。
自分の卑怯な振る舞いも、罪悪感も、すべてを飲み込んで彼は立ち上がった。
彼が口にした言葉を聞いた瞬間、結衣の中の「現在」は、莉央への裏切りや香織への対抗心を超えて、純粋な一人の少女の恋へと昇華されたのだ。
明日、湊は莉央と向き合う。
その後、彼は香織の待つ厨房へ戻るだろう。
そのどこにも、結衣が入り込む余地はないのかもしれない。
「私は、あんたの隣で、誰よりもあんたの『今』を見てた。……それだけで、十分だったのかな」
涙を拭ったあとの結衣の笑顔は、毒が抜けたように澄んでいた。
それは、自らの恋を「敗北」ではなく「完遂」へと導いた、潔い一人の女の顔だった。
明日、すべてが終わる。
あるいは、すべてが正しく始まる。
結衣は夜の街を、迷いのない足取りで歩き出した。




