13.【間話】シュガー・ベールの向こう側、あるいは未完成の未来
洋菓子店『ベル・エキップ』の厨房は、営業終了後の静寂に包まれていた。
残光のような蛍光灯の下で、香織は一人、大理石の作業台を磨いていた。
プロテクトをかけるように締め直したコックコートの襟元が、今の彼女の決意を物語っている。
「……湊くん。君が見ている景色は、まだ断片的すぎるのよ」
独り言が、冷えたステンレスの壁に跳ね返る。
香織は知っていた。湊がこの店で見せる、あの渇いたような、何かに急かされるような努力の正体を。
彼は、自分を追い詰めることで、何かを埋め合わせようとしていた。
それは失った「過去」への無意識の償いか、それとも自分を定義するための必死の足掻きか。
香織は、湊が描くデッサンの中に、時折現れる「空白」に気づいていた。
美しく、緻密で、完璧な構成。けれど、その中心にあるべきはずの「誰に食べさせたいか」という根源的な熱量が、どこか別の場所に預けられたままになっているような違和感。
「私はね、君のその空白ごと、未来へ連れて行きたいの」
香織は目を閉じる。
専門学校の同級生たちは、お菓子の「映え」や「流行」を追う。
けれど湊は、お菓子の「誠実さ」を追っている。
その危ういまでの純粋さに、香織は、自分自身の「なんとなく」歩んできた人生を根底から揺さぶられたのだ。
彼がもし、過去を取り戻してしまったら。
あの日、彼がパティシエを志した「きっかけ」を完全に思い出してしまったら。
その時、湊の隣にいるのは、技術を教える「先輩」である自分ではないかもしれない。
「……それでも。私は私の初恋を、技術の誇りにかけて譲らない」
香織は磨き上げたばかりのパレットナイフを手に取る。
鏡のように磨かれたその銀色の面に、自分の鋭い眼差しが映る。
莉央という過去が、どれほど強固な記憶を持っていようと。
結衣という現在が、どれほど切実な熱量(温度)で寄り添おうと。
湊がたどり着くべき「最高の店」の隣で、同じ重さのナイフを握れるのは、自分だけだという自負。
「待ってるわよ、湊くん。あなたがどんな答えを出して、どんな顔で明日この厨房に立っても。……私は、あなたの『未来』を諦めてあげないから」
香織は、明日訪れるであろう「決着」の予感に胸をざわつかせながらも、凛とした足取りで厨房の明かりを消した。
暗闇の中、甘い香りの残り香だけが、嵐の前の静けさを象徴するように漂っていた。




