12.三位一体のルセット、あるいは現在地の証明
決戦の前夜。街灯の青白い光が、公園のベンチに座る二人の影を長く伸ばしていた。
結衣は、自分の吐息が震えているのを自覚していた。昨夜から一睡もできず、脳裏を焼き尽くしたのは莉央の「過去」への執着と、香織の描く「未来」の輝き。そのどちらにも居場所のない自分を、彼女は許せなかった。
「……急に呼び出して、ごめん。湊くん」
隣に座る湊は、怒る風でもなく、ただ静かに夜の闇を見つめていた。その横顔があまりに完成された「大人」に見えて、結衣は焦燥感に駆られるように言葉を紡ぎ出す。
「バイトを始める前、莉央から時々あんたの話を聞いてた。その時は、ただの幼馴染の惚気だと思って、笑って流してたんだ。……でも、バイト先で初めてあんたと話して、その真面目さに触れて。学校の誰よりも真摯に夢と向き合うあんたを見て……気づいたら、目が離せなくなってた。この気持ち、莉央にも伝えてあるから」
結衣は、膝の上で拳を固める。
「私は、莉央みたいな『過去』の共有者じゃない。……でも、私はあんたの『現在』になりたい。今、隣で同じ汗を流して、同じ景色を見てる私を選んでほしい。……それが、どれだけ卑怯なことか分かってても」
湊が唇を開き、何かを答えようとした。その瞬間、結衣は弾かれたように叫んだ。
「待って! 言わないで!」
沈黙が、重く二人の間に横たわる。遠くで走る車の走行音だけが、世界の連続性を繋ぎ止めていた。
結衣の目から、一滴の涙が零れ落ちる。罪悪感。店長の娘・香織と対峙した時に感じた、あの圧倒的な敗北感と、それでも捨てきれない恋心。
「……香織さんと、話したんだ。あの人も、あんたのことが好きだって。あんたの『未来』になりたいって言ってた。……そして、あの人が言ってたの。あんたは、パティシエを目指す一番大事な『きっかけ』を忘れてるんじゃないかって」
結衣は声を震わせながら、これまで無意識に、そして意図的に目を背け続けてきた「真実」を口にした。自分の恋を終わらせないために、湊を「現在」に繋ぎ止めるために封印していた、あの瞬間の記憶。
湊の体が、目に見えて硬直した。
「……っ!」
彼の瞳が大きく見開かれる。脳裏に、激流のような勢いで何かが流れ込んでいく。
白く濁っていた視界が、パッと開けるような感覚。自分がなぜ、この道を選んだのか。誰のために、あの日、あんなにも強く願ったのか。
湊はしばらくの間、天を仰いで沈黙した。その横顔には、これまでの「穏やかな諦念」ではなく、もっと根源的で、熱を帯びた「意志」が宿り始めていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、涙を流してうなだれる結衣の隣に歩み寄る。
そして、その震える肩に、そっと、けれど確かな温もりを持って手を置いた。
湊が、静かに唇を動かす。
その言葉は、結衣にとって、そして明日を待つ莉央や香織にとっても、すべての関係性を塗り替えてしまうほどの、絶対的な響きを持っていた。
結衣は、溢れ出る涙を手の甲で乱暴に拭った。
顔を上げた彼女の表情には、もう迷いも卑屈さもなかった。
彼女は湊を見つめ返し、この数日間で最も美しく、そして晴れやかな、最高の笑みを投げかけた。




