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11.三色のグラサージュ、あるいは未完の動機

「……待ってほしい、ですか。莉央のことも、私のことも」


バイト先の更衣室。パティシエ専門学校の教科書を抱えた香織は、結衣の言葉を反芻するように静かに呟いた。

結衣は、自分の指先が微かに震えているのを隠すために、エプロンのポケットを強く握りしめる。親友の絶望的な片思い、そして自分の中に芽生えた、親友を裏切りかねない醜い独占欲。それらすべてを、目の前の「完成されたライバル」にさらけ出した。


「湊くんと莉央が、二人きりで話すことになりました。そこで、すべてが決まるはずです。……だから、香織さん。もしあなたが湊くんを想っているなら、その結果が出るまで、待ってもらえませんか」


沈黙が流れる。換気扇の回る乾いた音だけが、二人の間に横たわっていた。香織はやがて、窓の外の暮れなずむ空を見上げ、独白するように語り始めた。


「私はね、この店の娘として生まれて、物心ついた時からお菓子に囲まれてた。なんとなく粉を混ぜて、なんとなく専門学校に入って……。厳しい世界だから、恋なんてする暇も、興味もなかった。学校にいる男の子たちも、なんとなく親の跡を継ぐような、熱のない人ばかりだったし」


香織の瞳が、ふっと熱を帯びる。


「でも、湊くんは違った。あんなに真っ直ぐで、純朴で……何かに取り憑かれたみたいに必死に、素直に『美味しいものを作りたい』って願う彼の姿を見て、私、初めて心臓が跳ねたの。……私、湊くんに恋をしてる。それは認めます」


結衣は息を呑んだ。完璧に見えた年上の女性が、自分と同じ、あるいはそれ以上に切実な熱を抱いている。


「話し合いまでは待ちましょう。でも、私の初恋を諦める気はないわ。莉央さんが彼の『過去』なら……私は、湊くんの『未来』になりたい」


「未来」……。その言葉の重みに、結衣は打ちのめされる。自分は湊の何になりたいのだろう。過去を共有する莉央でもなく、未来を共に歩める香織でもない。今の彼を横で見つめるだけの、中途半端な「現在」ですらないのかもしれない。


「……でもね、佐伯さん」

香織がふと、表情に影を落とした。

「湊くん、時々不思議な顔をするの。パティシエになりたい理由や、その決意をした『きっかけ』の話になると、何かに触れようとして、何も掴めないような……。一番大事なピースを、彼自身が忘れている気がするのよ」


香織の声は、微かに震えていた。

「私はそれを知りたい。……けれど、同時に知るのが怖いの」


その「きっかけ」という言葉に、結衣の脳裏をある光景がよぎった。幼い日の湊と莉央。二人の間に確かに存在した、あの瞬間の記憶。

けれど結衣は、それを言葉にすることを拒んだ。無意識のうちに、気づかないフリをして、心の奥底へ押し込める。


それを伝えてしまえば、湊は「過去」へ帰り、自分のささやかな恋も、香織の描く未来も、すべてが崩れ去ってしまう予感がしたから。


過去を抱きしめる莉央。未来を望む香織。そして、今を失いたくない結衣。

三人の少女の想いは、何も知らないままナイフを握る湊の背中で、複雑に、そして残酷に交差していく。

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