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第8話 農業チート開始。エルフの魔法と古代肥料の相乗効果

 王都が下水騒動で前代未聞のパニックに陥っていた頃。

 辺境のデッドランドに建てられたログハウスでは、穏やかで希望に満ちた朝の陽光が差し込んでいた。


「ん……んんっ」


 二階のゲストルーム。マチルダがナノマシンで作り上げたふかふかのベッドの上で、リーリャは心地よいまどろみからゆっくりと目を覚ました。

 身を起こし、自分の身体を見下ろして小さく息を呑む。

 昨日まで彼女の身体を無数に刻んでいた魔獣の爪痕や切り傷は、跡形もなく消え去っていた。それどころか、過酷な逃亡生活でボロボロになっていた肌や髪の毛までが、まるで上質な美容液をたっぷりと吸い込んだように艶やかな潤いを取り戻している。


(傷が治っただけじゃない。身体の奥底から、力が湧いてくるみたい……)


 昨夜、アルドが作ってくれた滋味深いスープ雑炊の味を思い出し、リーリャの胸の奥がじんわりと温かくなった。

 ただの魔法の治癒術ではない。あの大柄で不器用そうな男が手間暇をかけて作ってくれた温かい食事が、冷え切っていた彼女の心と身体を根底から救い上げてくれたのだ。


 リーリャはマチルダが用意してくれた肌触りの良いチュニックに着替えると、一階のリビングへと降りていった。


「おはよう、アルドさん、マチルダさん」


「おう、おはよう。体調はどうだ?」

『おはようリーリャちゃん! 睡眠スコアは満点、生体バイタルも完璧な数値に回復しているわ! もう少しお肉をつけた方がいいから、今日の朝ご飯もたっぷり用意したわよ!』


 キッチンでは、アルドが淹れたてのコーヒーの香りを漂わせており、ホログラムのマチルダが甲斐甲斐しく朝食の皿を並べていた。

 メニューは、こんがりと焼けた厚切りトーストに、ふわふわのオムレツ。そして瑞々しい温野菜のサラダだ。


「本当に、夢のような場所ですね……。昨日まで、死の森を這いずり回っていたのが嘘みたいです」

「ここからはスローライフの始まりだ。ゆっくり楽しめばいい」


 アルドは満足げに目を細めながら、コーヒーのマグカップを傾けた。


 三人で賑やかな朝食を終えた後、アルドはポンと手を叩いて立ち上がった。


「さて。家もできたし、君という住人も増えた。いよいよ本格的な『農業』を始めるとするか」

「農業、ですか? でもここは……」


 リーリャは窓の外を見た。マチルダの結界の内側には、ふかふかとした黒土が広大な畑のように広がっているが、ここはマナが枯渇したデッドランドだ。通常の植物が育つ環境ではない。


「ああ、昨日マチルダが呪縛茨の森を一掃して、この最高の土を作ってくれたんだ。王都を出る時に買っておいた野菜の種があるから、まずはこいつを蒔いてみる」

「でしたら、私にも手伝わせてください!」


 リーリャは目を輝かせて前に出た。


「私、エルフの植物魔法が使えます。戦闘には全く役に立ちませんが、土の養分を種に集めて、成長を少しだけ早めることができるんです。助けていただいた恩返しを、少しでもさせてください」

「そいつは助かるな。頼むよ、リーリャ」


 アルドの優しい言葉に、リーリャは嬉しそうに頷いた。


★★★★★★★★★★★


 ウッドデッキの目の前に広がる畑。

 アルドは等間隔に土へ指で浅い穴を開け、そこにトマト、キャベツ、大根といった一般的な野菜の種を落とし、優しく土を被せていった。


「よし、準備完了だ」

「はい。では、いきます」


 リーリャは種を蒔いた畝の前に立ち、両手を胸の前で組み合わせ、そっと目を閉じた。

 彼女の長い耳がわずかにピクピクと動き、エルフ特有の澄んだ魔力が周囲の大気から集まってくる。


「――大地の息吹よ。眠れる命に、穏やかなる目覚めと成長の祝福を」


 リーリャの手のひらから、淡いエメラルドグリーンの光の粒子がこぼれ落ち、柔らかな土へと吸い込まれていった。

 本来のエルフの魔法であれば、数日かけて芽が出る種が、半日ほどで発芽し、数週間で収穫できるようになるという、ささやかな成長促進の術である。


 しかし、この開拓地は全てが規格外だった。


 リーリャの魔力が土に触れた瞬間。

 土の中に潜んでいたマチルダ特製の『ナノマシン』と、エルフの純粋な『植物魔法』が、奇跡的な相乗効果を引き起こした。


 ――チリチリチリッ!


「えっ……?」


 リーリャが目を見開く。


 土の表面が、まるで呼吸をするように小さく波打ち始めたのだ。

 そして、かすかな土の弾ける音とともに、鮮やかな緑色の双葉がポンッ、ポンッ! と勢いよく顔を出した。

 驚くべきはそこからだ。双葉は瞬く間に茎を太くし、シャワシャワシャワ……という、植物が細胞分裂を繰り返す心地よい音を立てながら、信じられないスピードで天に向かって伸びていく。


「パキッ、スススッ……!」


 魔法の光とナノマシンの微振動が共鳴し、命が芽吹く至福の音を響かせながら、茎には青々とした大きな葉が広がり、黄色や白い小さな花が次々と咲き乱れる。

 そして花が散ったかと思うと、その跡から目に見える速さで実が膨らみ始めた。


 種を蒔いてから、わずか3分。

 アルドとリーリャの目の前には、大人の背丈ほどに育ち、真っ赤に熟れた巨大なトマトがたわわに実る、見事な野菜畑が完成していた。


「……嘘だろ」


 アルドは口を半開きにして、目の前のジャングルと化したトマトの木を見上げた。


「私の魔法は、こんなに凄くありません……! この土、いったいどうなっているんですか!?」


 リーリャも自分の両手と畑を交互に見比べ、パニックに陥っている。


『ふふん! どうやら、私が成分を最適化したナノ培養土と、リーリャちゃんの魔力の波長が完璧にマッチしたみたいね! 細胞の代謝速度が通常の五千倍にブーストされているわ! 素晴らしい共同作業よ!』


 マチルダのホログラムが、空中でバンザイをして歓喜の声を上げた。


「1日で収穫ってレベルじゃないぞ……数分だぞ。もはやチートという言葉すら生ぬるい」


 アルドは呆れ返りながらも、目の前で赤々と輝くトマトを一つもぎ取った。

 ずっしりとした重み。皮はパンッとはち切れそうなほどに張っている。アルドは服の袖で軽くそれを拭くと、豪快にガブリとかじりついた。


 ――シャクッ! ジュワァァァ……!


 その瞬間、アルドの目が大きく見開かれた。

 薄く張りのある皮が破れる心地よい食感とともに、信じられないほど甘く、そして程よい酸味を持った果汁が口いっぱいに弾け飛んだのだ。

 太陽の光と大地のエネルギーを限界まで濃縮したような、圧倒的な旨味。


「……美味い。なんだこれ、王都の貴族が食べている高級品より、遥かに美味いぞ!」

「ほ、本当ですか?」


 アルドに促され、リーリャも小さなトマトをもぎ取って口に運んだ。

 プツン、と皮が弾けた瞬間、彼女の翠緑の瞳がキラキラと輝きを放った。


「あまい……! フルーツみたいに甘いです! しかも、なんだか魔力が身体に満ちてくるような……こんな美味しい野菜、エルフの長い歴史の中でも食べたことがありません!」


 リーリャは感動のあまり、二つ目、三つ目と無我夢中でトマトを頬張り始めた。

 マチルダの超絶土壌改良技術と、エルフの魔法が融合した結果、この開拓地は「3分で絶品野菜が無限に収穫できる」という、究極の農業チート領域へと足を踏み入れたのだった。


「よし、これで食糧問題は完全に解決だな。最高のスタートだ」


 アルドが満足げに頷いた、その時だった。


『……ん? マスター、結界のすぐ外側に、またしても極小の生体反応を感知しました』


 マチルダのオカンモードが引っ込み、無機質な防衛システムのトーンが響いた。


「またか。魔獣の生き残りか?」

『いえ、腐食狼のような危険な魔力反応はありません。質量から推測するに、小型の動物……それも、かなり幼い個体です』

「幼い個体……?」


 アルドとリーリャは顔を見合わせ、急いで畑を抜け、マチルダの結界の境界線へと向かった。


 陽炎のように揺らぐ見えない壁のすぐ外側。

 ゴツゴツとした岩の陰に、それはうずくまっていた。


「クゥーン……、キュゥ……」


 か細く、震えるような鳴き声。

 アルドがゆっくりと近づき、岩陰を覗き込むと、そこには黄金色のフワフワとした毛並みを持つ、丸っこい毛玉のような生き物が丸まっていた。

 垂れた耳に、短く太い足。そして、潤んだつぶらな瞳でこちらを見上げてくる。

 どう見ても、ゴールデンレトリバーの赤ちゃんだ。


「犬……? いや、この世界にも犬はいるが、なぜこんな危険な辺境に子犬が……」


 アルドは目を瞬いた。

 親犬が魔獣に襲われてはぐれてしまったのか、あるいは王都から逃げてきた商人のキャラバンから落ちてしまったのか。しかしいずれにせよ、このデッドランドで幼い子犬が単独で、しかも無傷のまま生き延びられるはずがない。


 アルドが警戒心を抱きかけたその時、背後からマチルダの悲鳴のような警告が飛んだ。


『マスター、待ってください! その個体、スキャン結果が異常です! 外見こそただのイヌ科の生物に酷似していますが、細胞内にデッドランドの瘴気を中和する強力な魔力……いえ、古代の『神獣』クラスのエネルギー反応を内包しています! つまりその毛玉、ただの犬のフリをしたとんでもない化け物よ!』


 マチルダの言葉に、アルドとリーリャは息を呑んだ。

 神獣。それは伝説やおとぎ話にしか登場しない、天災にも等しい力を持つ存在だ。そんな規格外の存在が、なぜこんなところで震えているのか。


「キュ~ン……」


 すると子犬は、よろよろと立ち上がり、結界の内側にいるアルドに向かって小さな尻尾をパタパタと振り始めた。そして、アルドのごつい革靴のつま先をペロペロと舐めようとする。


 その瞬間。

 アルドの強面で常に大人の余裕を保っていた表情が、見る影もなく崩れ去った。


「…………飼うか」


 即答だった。


「えっ? アルドさん、今神獣って……きゃあああ! 可愛いっ!!」


 アルドの後ろから覗き込んだリーリャも、子犬の破壊的な愛くるしさに完全にメロメロになり、伝説の生物という危険性など一瞬で忘却の彼方へと追いやってしまった。


『ちょっと! 二人とも話聞いてました!? そいつは神獣クラスの化け物で……!』


「神獣だろうが何だろうが、こんなに可愛いんだ。それに、腹を空かせて震えてる。飼うぞ」


 アルドはマチルダの静止をガン無視し、結界を一部解除すると、そっと両手でその小さな毛玉を抱き上げた。

 手のひらから伝わってくる、確かな鼓動と温もり。子犬はアルドの分厚い手にすり寄るように顔を擦り付け、安心したように目を閉じた。


「よし、今日からお前はうちの家族だ。ログハウスに連れて帰るぞ」

「はいっ! お風呂に入れてあげましょう!」


 二人がウキウキとした足取りで子犬を抱えてログハウスに戻ると、待ち構えていたマチルダが大パニックを起こした。


『キャーーッ!! なによその泥だらけの毛玉は! 神獣だとしても寄生虫や未知の病原菌を持っていたらどうするの! ストップ、そこから一歩も入っちゃダメ!!』


 マチルダのホログラムが悲鳴を上げ、本体から数本のクリーニングアームが猛烈な勢いで伸びてきた。


『問答無用でシャンプーモード起動よ!』

「お、おいマチルダ、優しく洗ってやってくれよ!」


 アームの先端から、適温の温水と、皮膚に絶対にダメージを与えない特殊な除菌泡が噴射される。

 子犬は最初こそ驚いたものの、マチルダのアームによる絶妙な力加減のマッサージシャンプーがよほど気持ちよかったのか、すぐに「クワァ〜……」とだらしない声を上げて身を任せ始めた。


 数分後。

 温風ドライヤーで完全に乾かされた子犬は、泥汚れが落ちて本来の美しい黄金色の毛並みを取り戻し、もはや光り輝くほどのフワフワな「天使の毛玉」へと変貌していた。


『ふぅ、これで無菌状態よ。……あらやだ、洗ってみたら結構可愛い顔してるじゃないの』


 マチルダのオカン回路にも、子犬の可愛さは直撃したらしい。危険な生物だと忠告していたはずのホログラムのおばちゃんが、完全に目尻を下げて子犬を撫でる仕草をしている。


『成長期の子犬には完璧な栄養管理が必要ね! ちょっと待ってなさい!』


 マチルダは機内のプラントをフル稼働させ、わずか10秒で「子犬用・完全栄養ペレット」と、温度と湿度が自動調整される高機能な犬小屋をリビングの片隅にクラフトしてしまった。


「……おいマチルダ。俺の寝袋の時より、明らかに気合の入り方が違わないか?」

『当たり前でしょ! 人間のおじさんと、こんな可愛い赤ちゃんとじゃ扱いが違うに決まってるわ! さあ、お食べなさい!』


 アルドのボヤキを無視して、マチルダが専用の器にペレットを出すと、子犬は尻尾を千切れんばかりに振ってガツガツと食べ始めた。


「アルドさん、この子の名前はどうしますか?」


 リーリャが、ペレットを食べる子犬の背中を優しく撫でながら尋ねる。


「そうだな。ポチ……いや、それはちょっと風情がないか」

「『レオ』なんてどうでしょう? この綺麗な黄金色の毛並みが、誇り高いライオンみたいですから」

「レオ、か。いい名だ。今日からお前はレオだぞ」


 アルドが名前を呼ぶと、子犬――レオは食事の手を止め、嬉しそうに「ワンッ!」と元気な声で応えた。


 窓の外には、わずか3分で育った絶品の野菜畑。

 家の中には、俺の作った手料理を美味そうに頬張ってくれるエルフの少女と、過保護なオカンAI、そして最高に愛らしい家族のレオ。


 アルドは淹れ直したコーヒーを一口飲み、ソファに深く腰掛けた。

 王都の喧騒も、理不尽な貴族からの命令もここにはない。あるのはただ、心地よい静寂と、温かな生活の匂いだけだ。


「……最高だな」


 アルドは足元にじゃれついてくるレオの柔らかな毛並みを撫でながら、誰に聞かせるでもなく、心からの充実したため息を漏らすのだった。

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