第6話 エルフの難民少女・リーリャとの遭遇
アルドは完成したばかりのログハウスのウッドデッキを駆け下り、マチルダが警告を発した「防衛レーダーの境界線」へと急いだ。
真新しい培養土のふかふかとした感触を踏みしめながら数十メートルほど走ると、空間がわずかに陽炎のように歪んでいる場所に行き当たった。マチルダが展開している、物理攻撃も魔法攻撃も一切通さない絶対防衛の結界の境界だ。
その見えない壁の内側に、ひとつの小さな影が倒れ伏していた。
「おい、しっかりしろ!」
アルドが駆け寄って抱き起こすと、泥と土埃、そして乾いた血にまみれた小柄な女性だった。
ボロボロになった革の軽鎧に、自然の草木を編み込んだようなマント。そして何より目を引くのは、泥に汚れてはいるが透き通るような白い肌と、長く尖った耳だ。
「エルフ……? なぜこんな辺境のデッドランドに……」
アルドが驚きの声を上げたのと同時に、結界の外側から凄まじい獣の咆哮が響いた。
見ると、見えない壁のすぐ向こう側に、数頭の凶悪な魔獣が血走った目を剥いて群がっていた。全身の毛が抜け落ち、腐肉の匂いを漂わせるデッドランド特有の魔獣「腐食狼」だ。
彼らは獲物であるエルフの少女を執拗に追ってここまで来たものの、マチルダの結界に阻まれて中に入れず、苛立ちに任せて鋭い爪と牙で見えない壁をガリガリと引っ掻き回している。
『シッ! 散りなさい、この薄汚いノラ犬ども! 私の綺麗なお庭に病原菌を撒き散らす気!?』
アルドの背後からズシン、ズシンと地響きを立てて多脚戦車が追いついてきた。
マチルダのホログラムが腰に手を当てて怒鳴り声を上げると同時に、巨大な本体から細いアームが伸び、結界の外の地面に向けて極小のプラズマトーチを照射した。
――ジュボッ!
腐食狼たちの鼻先の地面が、一瞬にして数千度の超高温で爆発的に蒸発した。
物理的な破壊力ではなく、その圧倒的な「格の違うエネルギーの熱」に本能的な恐怖を感じ取ったのだろう。腐食狼たちは悲鳴のような鳴き声を上げると、尻尾を巻いて荒野の彼方へと一目散に逃げ去っていった。
「助かった、マチルダ。こいつをログハウスに運ぶ。スキャンと治療を頼む!」
『ええ、任せてちょうだい!』
アルドはエルフの少女を軽々と抱き上げ、早足でログハウスへと引き返した。
腕の中にいる少女は、驚くほど軽かった。小柄な体格であることを差し引いても、まるで骨と皮だけになってしまったかのような痛ましいほどの軽さだ。
リビングのふかふかとしたソファに少女を寝かせると、マチルダの機体から医療用のスキャナー・アームが窓越しに伸びてきて、淡い緑色の光で彼女の全身を走査し始めた。
『……ひどい状態ね。左腕と右足に深い裂傷。でも幸い、致命傷には至っていないわ。ただ、極度の栄養失調と魔力枯渇、それに極限状態のストレスと睡眠不足が重なって、生命力がギリギリのところで持ちこたえている状態よ』
「治療できるか?」
『誰に聞いているの? お母さんを舐めないでちょうだい』
マチルダが自信満々に答えると、アームの先端からナノバインダーの青い光が少女の傷口に照射された。
チリチリチリ……という静かな音とともに、少女の腕や足の傷口の細胞が急速に活性化し、見る間に肉が盛り上がり、血が止まり、ついには傷跡一つ残さずに完全に塞がってしまった。
「相変わらず、魔法の治癒術すら過去のものにする恐ろしい技術だ」
『これで外傷は完璧よ。あとは細胞の回復に必要なエネルギーね。よし、私が機内のプラントで、必須アミノ酸と高カロリーを配合した特製の生体修復流動食を……』
「待て、マチルダ」
合成食料を用意しようとするマチルダを、アルドは手で制した。
「傷の治療はお前の技術が一番だ。俺も心から感心している。だが……『飯』は俺に作らせてくれ」
『どうして? 私の合成食なら、衰弱した胃腸にも負担をかけず、今の彼女に必要な栄養素を秒単位で完璧に吸収させることができるのよ?』
マチルダのホログラムが不思議そうに首を傾げる。効率と合理性を極めたAIからすれば、アルドの提案は無駄な手間にしか思えないのだろう。
だが、アルドは少女の泥だらけの頬を濡らした、涙の跡を見つめながら静かに首を振った。
「彼女はきっと、俺たちの想像を絶するような恐怖と孤独の中で、ずっと逃げ続けてきたんだ。……そういう極限状態の心が求めているのは、計算し尽くされた『栄養』じゃない。誰かが自分のために手間暇をかけて作ってくれた、匂いのする『温かい飯』なんだよ」
王都での終わりの見えない激務の日々の中、どれだけ効率的な魔力ブロックを支給されても心は休まらず、夜中に一人で焚き火を起こして自炊することにこだわったアルドだからこそ、痛いほど分かる感覚だった。
それに、家作りから何から何までマチルダのチート技術におんぶに抱っこで、アルド自身の「自分の手で何かを成し遂げたい」というDIYロマンは完全に不完全燃焼を起こしていたのだ。
アルドの静かだが力強い説得に、マチルダのホログラムはふっと優しい微笑みを浮かべた。
『……そうね。アルドくんのそういう不器用だけど温かいところ、お母さんは嫌いじゃないわ。わかった、キッチンは貸してあげる。でも、消化に悪いものは絶対にダメよ!』
「ああ、任せておけ。とびきり美味いやつを作ってやる」
アルドは腕まくりをすると、荷袋から愛用の調理器具と食材を取り出し、真新しいシステムキッチンへと向かった。
用意したのは、王都から持ってきた岩塩漬けの干し肉の塊と、カチカチに硬くなった黒パン。そして、マチルダに頼んで先ほど素材からパパッと合成してもらったばかりの新鮮な根菜類だ。
まずは干し肉を包丁で紙のように薄く、そして細かく刻んでいく。トントントン、というリズミカルな包丁の音が、静かなログハウスの中に心地よく響く。
続いて、マチルダ特製のコンロに鍋をかけ、ごく少量の油を引いて刻んだ干し肉を炒める。
ジュワァァァ……という小気味良い音とともに、干し肉に凝縮されていた旨味と脂が溶け出し、濃厚な香りがキッチンに立ち込める。
そこに刻んだ根菜を加えてサッと炒め合わせ、たっぷりの水と、アルド特製の数種類の乾燥ハーブを投入する。
グツグツと煮込み、スープにハーブの爽やかな香りと肉の出汁が十分に溶け出したところで、硬い黒パンを細かくちぎって鍋の中へ放り込んだ。
パンがスープの旨味をたっぷりと吸い込み、トロトロに煮崩れるまで弱火でじっくりと火を通していく。
仕上げに岩塩で味を調えれば、辺境の限られた食材で作る、至高の「具だくさんスープ雑炊」の完成だ。
「よし、出来たぞ。消化に良くて身体の芯から温まる、最高の体力回復食だ」
『うんうん、とっても良い匂いね。アルドくん、お料理の才能もあるじゃない!』
アルドが木製のボウルにスープ雑炊を盛り付けていると、背後のソファから「……ん、うぅ……」という微かなうめき声が聞こえた。
★★★★★★★★★★★
リーリャは、ふかふかとした、まるで雲の上にいるような感触の中で意識を取り戻した。
(私は……死んだの……?)
重い瞼をゆっくりと開ける。
視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど滑らかで美しい木の天井だった。そして、鼻腔をくすぐる清浄な森林の香り。
先ほどまでの、腐食狼の息遣いに怯え、泥水と血の匂いにまみれながら死の大地を這いずり回っていた過酷な逃避行の記憶とのあまりのギャップに、リーリャの脳は状況を理解できずにフリーズした。
「……気がついたか」
不意に、低くて太い男の声が響いた。
ハッと横を向いたリーリャの心臓が、恐怖で早鐘のように跳ね上がった。
そこには、身長が2メートル近くあるのではないかという無精髭の強面の男が立っていた。さらにその背後、窓の外には、太陽の光を遮るほどの巨大な漆黒の「鉄の獣」が鎮座し、こちらを見下ろしている。
そして何よりリーリャを混乱させたのは、強面の男のすぐ隣に、なぜかふわりと宙に浮いて発光している、不思議な白い布を着た中年の女性が腕を組んで立っていたことだ。
「ヒッ……!!」
リーリャは短い悲鳴を上げ、ソファから転がり落ちるようにして壁際へと後ずさった。
エルフ特有の高い警戒心が警報を鳴らしている。自分の弓を探そうと手を伸ばすが、武器はおろか、泥だらけだったはずの自分の服が、いつの間にか肌触りの良い清潔な布の服に変わっていることに気づき、さらにパニックに陥った。
「こ、来ないで! 食べないで……! 私なんか、筋張ってて美味しくないから……! そ、それに、その窓の外の鉄の魔獣と……目の前の光るおばさんを近づけないで!」
『光るおばさん!? 失礼ね、私はお母さんよ!』
ホログラムのマチルダがぷんすかと怒るが、情報量が多すぎる状況に完全に混乱しきっているリーリャは、ガタガタと震えながら壁に背を張り付けている。
アルドは大きな両手を広げ、敵意がないことを示しながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「安心しろ、危害は加えない。ここは俺の家で、あの鉄の塊と光ってるおばちゃんは俺の……まあ、相棒みたいなもんだ。君を襲っていた腐食狼の群れなら、結界の外に追い払ったよ。君はもう安全だ」
アルドの落ち着き払った、深く静かな声のトーンに、リーリャの震えがわずかに収まった。
相手の眼光は鋭く強面だが、その瞳の奥にはどこか気怠げで、しかし絶対的な安心感を与える温かな光が宿っていた。
「ここが、安全……? あなたが、私を助けてくれたの……?」
「正確に言えば、助けたのは半分あいつだがな。まあ、そんなことは後でいい」
アルドは、手に持っていた木製のボウルを、リーリャの目の前の小さなテーブルにそっと置いた。
「食えるか? 腹が減っているだろう」
その瞬間、リーリャの鼻を、とてつもなく暴力的な「誘惑」が襲った。
ハーブの爽やかな香りの奥底に潜む、肉の濃厚な旨味。そしてパンの甘い匂い。それらが熱い湯気とともに立ち昇り、極限まで飢餓状態にあったリーリャの胃袋を鷲掴みにした。
――キュルルルルルッ!!
静かなログハウスの中に、リーリャの盛大な腹の虫の音が響き渡った。
リーリャは顔を一瞬でリンゴのように真っ赤に染め上げ、両手でお腹を押さえた。
「毒は入ってない。塩とハーブと、あとは少しばかりの俺の苦労が入っているだけだ。熱いから気をつけて食えよ」
アルドが微笑みながらスプーンを差し出す。
リーリャはまだ完全には警戒を解いていなかったが、目の前のボウルから放たれる暴力的なまでの匂いにはどうしても抗えなかった。
震える手でスプーンを受け取り、トロトロに煮込まれたスープ雑炊をすくい上げ、恐る恐る口へと運ぶ。
「……んッ」
一口食べた瞬間、リーリャの翠緑の瞳が限界まで見開かれた。
口の中に広がったのは、圧倒的な「優しさ」だった。
スープをたっぷりと吸い込んだパンは舌の上でとろけ、噛む必要すらない。干し肉から溶け出した強烈な旨味が、ハーブの香りで完璧に調和され、冷え切り、傷ついていた五臓六腑へとじんわりと染み渡っていく。
それは単なる栄養補給ではなく、全身の細胞一つ一つが歓喜の声を上げるような、命を繋ぐための味わいだった。
「……美味しい……」
ポロリ、と。
リーリャの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
故郷の森を魔物に焼かれ、同胞とはぐれ、死の大地をただ一人で逃げ惑っていた孤独な日々。もう死ぬのだと諦めかけていた彼女にとって、この温かく、底抜けに美味しい手料理は、張り詰めていた心の糸を優しく解きほぐすのに十分すぎる威力を誇っていた。
「あ、うぅ……美味しい、です。すごく……」
リーリャは涙を拭うことも忘れ、夢中になってスプーンを動かした。
警戒心などとうの昔に吹き飛び、ただボウルの中の温もりにすがりつくように、無我夢中でスープを平らげていく。
その様子を、アルドは顎をさすりながら目を細めて見守っていた。ホログラムのマチルダもまた、満足そうにウンウンと頷いている。
やがて、ボウルの底が見えるまで綺麗に完食したリーリャは、大きく息を吐き出して顔を上げた。
その表情からは先ほどの恐怖と焦燥感は消え失せ、代わりに安堵と、アルドに対する深い恩義の色が浮かんでいた。
「ごちそうさまでした……。あの、私、リーリャと言います。命を救っていただき、それにこんなに美味しいご飯まで……本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「俺はアルドだ。礼なら、元気になってからでいい。今はただ、ゆっくりと休め」
アルドのその大人の余裕を感じさせる言葉に、リーリャは深く頭を下げた。
こうして、辺境のスローライフを満喫しようとしていたアルドの開拓地に、初めての「住人」となるエルフの少女が合流したのだった。




