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愛着のスノードーム  作者: 沈丁花


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第7話:汚染と解離


 送迎車の助手席。窓の外を流れる景色は、いつもと同じはずなのに、水槽の向こう側を眺めているように遠かった。


 目的地に到着すると、ピンクのネオンが夜の闇を毒々しく、(ただ)れた色で照らし出している。


「じゃあ、頑張ってね。終わったら連絡して」


 ドライバーの男が、スマホを見たまま、片手で軽く手を振った。

 紬は、重い足取りでホテルのエントランスをくぐった。自動ドアが開くたびに、冷たい空気が蛇のように足首をなめとっていく。

 三階。廊下のカーペットは、足音を消すために執拗なほど柔らかい。

 

 305号室。

 ドアの前で、肺が潰れるほど深く息を吸い、震える指でノックをした。


「はい」


 ドアが開いた。扉の向こうにいたのは、怪物ではなかった。五十代を少し過ぎたくらいの中年の男。清潔なポロシャツに、整えられた髪。どこにでもいる「父親」のような、普通の顔。


「あぁ、君が莉愛ちゃん? ……初めてなんだってね。大丈夫、俺優しいからさ」


 男は、穏やかに笑った。「初めてが俺でよかったね」


 その声、その慈愛を装った眼差し。紬の背筋を、氷のような不快感が駆け抜けた。


 紬は促されるまま、一歩、部屋に足を踏み入れた。

 その瞬間、反射的に息を止めた。肺に一滴の空気も入れたくない。

 目に見えるはずのない「汚れ」が、圧倒的な質量を持って視界を覆う。

 

 足元の派手な模様のカーペット。この模様は、落ちない汚れや、誰かの体液を隠すための迷彩ではないのか。ビニールに包まれたリモコン、使い捨てのコップ。どれだけ無菌を装っても、この空間に蓄積された「無数の他者」の気配が、湿り気を帯びて肌にまとわりついてくる。


 紬は、網膜に焼き付く「汚れ」を拒むように、まつ毛の隙間から世界を覗いた。部屋の隅で唸る空気清浄機の吹き出し口に、辛うじて「マシ」そうな大気の溜まり場を見つけ、そこでようやく、細く、汚染を濾過ろかするように息を吸った。


 自分の指先が何かに触れるのを恐れ、両手を強く握りしめる。男が座っているベッド。あのシーツの下にあるマットには、一体どれだけの欲望が吸い込まれているのだろう。そう考えただけで、胃の底から酸っぱいものがせり上がってくる。


「……莉愛ちゃん、早く着替えて」


「……あの、お店の決まりなので。先に、シャワーをお願いします」


 紬は、マニュアルをなぞるように震える声を絞り出した。


「あぁ、そうだった。了解、了解」


 男は慣れた手つきで鞄から着替えを取り出し、バスルームへと消えた。すぐに、ジャァァ……という、激しく水を流す音が響き始める。

 紬は、広い部屋に一人、取り残された。


 持参したボストンバッグから、タオル、使い回しのようなオイル、そして着替えを、指先だけで取り出す。

 用意されていた、白いベビードール。

 誰かが着たかもしれない、何かがついているかもしれない布。


 その薄いナイロンの生地を身に纏うと、守ってくれるものが何一つなくなったような無防備な寒気がした。肌を刺すような冷たさが、そのまま「汚染」として体内に浸透していく。


ふと、壁の大きな鏡が、音もなくこちらを覗き込んでいることに気づいた。


反射的に目を逸らそうとして――紬は、息を呑んだ。

汚泥のようなこの部屋に、場違いなほど「綺麗な女の子」が立っていたからだ。


透けるような白い布を纏い、怯えたように肩をすくめているその少女。

青白い頬と、湿った瞳。

それは紛れもなく自分自身の姿であるはずなのに、紬には、鏡の向こう側に囚われた「可哀想な誰か」を見ているような、奇妙な断絶感があった。


(ああ、なんて可愛いんだろう)


紬の心臓が、自分自身の苦痛のためではなく、その少女への愛惜(あいせき)で鳴った。

指を伸ばし、ひんやりとした鏡の表面に触れる。指先同士が重なる。けれど、触れ合っている感覚はない。そこには冷徹なガラスの壁があるだけだ。


彼女は、これから壊される。

汚され、蹂躙され、尊厳を削り取られていく。

その過酷な運命を引き受けてくれる彼女が、愛おしくて、申し訳なくて、たまらない。


紬は、鏡の中の少女の瞳を見つめ、祈るようにその名を呼んだ。


「……莉愛」


鏡の中の少女が、微かに、肯定するように微笑んだ気がした。

紬という意識が、鏡の表面に吸い込まれ、霧散していく。

鏡の外側に残されたのは、ただ愛らしく壊されるのを待つ「莉愛」という名の空っぽな器。


 シャワーの音が、止まった。


「お待たせ。……お、莉愛ちゃん、似合ってるね」


 湯気を纏って戻ってきた男は、さっきよりもずっと「清潔」で、そしてずっと「異物」だった。

 莉愛は、鏡からゆっくりと目を逸らした。

 もう、指は震えていない。


「……ありがとうございます」


 自分の声ではないような、甘く、平坦な声が、莉愛の唇から滑り落ちた。


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