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愛着のスノードーム  作者: 沈丁花


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第6話:莉愛


 駅前の雑居ビルの三階。看板もない、何の店かも分からない灰色のドアの前に、紬は立ち尽くした。

 

 凪がドアを開けると、意外なほど明るい空間が広がっていた。

 白い壁、アロマの甘い香り。

 

 まるで、普通のオフィスのような。

 いや、むしろエステサロンのような、清潔感を装った空間。

 


 けれど、紬の指先は、冷気に触れたように微かに震えた。

 どれだけ視界が白く塗り潰されていても、ここで行われていることの本質は変わらない。

 この清潔な壁の向こうで、女たちは記号へと解体され、この芳香剤の奥には、男たちの執着と女たちの諦念が沈殿している。

 

 紬の指先が、無意識にニットの袖を強く掴んだ。


「紬ちゃん、こっち」


 凪が歩き出す。紬は上着の袖で口元を覆い、肺に溜まる人工的な香りを拒絶しながら、その背中を追った。


 廊下の突き当たり。「事務所」とだけ書かれた曇りガラスのドアを凪がノックすると、中から湿り気を含んだ低い声が響いた。


「はいはーい、どうぞ」


 応接スペースは、モデルルームのように無機質だった。

 新品特有の硬い匂いがする、安っぽい北欧風のソファ。指紋一つないガラステーブル。その奥で、四十代くらいの、整えられた短髪の男がタブレットを眺めていた。


「よー、凪。その子が例の?」


 男——店長は、紬を頭の先からつま先まで、検品するように冷ややかに眺めた。


「はい。紬ちゃんです」


「紬ちゃんね。まあ、そこに座って」


 紬は、凪に促されるまま隣に沈んだ。

 店長は、タブレットの画面をスワイプしてスリープモードにすると、穏やかな、けれど感情の籠もらない笑顔を紬に向けた。


「じゃあ、まず身分証確認させてもらうね」


 紬は、震える手で免許証を差し出した。店長はそれを慣れた手つきで受け取り、スマホのカメラを向ける。カシャッ、という無機質なシャッター音が、自分の人生がデータとして売買される音のように聞こえた。


「オッケー。で、経験は? こういう系」


「……初めてです」


「そっか。まあ、見ればわかるけどね。緊張しすぎ」


 店長は、喉の奥を鳴らして笑った。


「まさか、処女じゃないでしょ?」


 店長の声には、好奇心も欲もなかった。ただ、チェックリストを読み上げるだけの、平坦な温度。


 紬の顔が、一気に熱くなった。

 凪が、すぐ横にいる。凪の前で、自分の最も奥底にあるプライバシーを土足で踏み荒らされる。紬の指先が、膝の上で痙攣した。


「……違います」


「オッケー。じゃあ、スリーサイズ教えて」


 思わず、凪に助けを求めるように視線を送った。けれど、凪は空調の吹き出し口をぼんやりと見つめたまま言った。


「大丈夫。プロフィールを作るのに必要なだけだから。変な意味じゃないよ」


 凪のその「事務的な肯定」が、何よりも紬の心を削った。


「……あの、正確には、わからなくて……」


「いいよ、だいたいで。こっちで適当に見繕うから」


 店長は、紬の体を撫でるように視線を動かした。服の上からでも、その粘りつくような視線に肌が粟立つ。


「Cカップ、ウエストは……細いね、60。ヒップは85。このくらいで載せとくわ」


 紬は、ただ操り人形のように頷くしかなかった。


「オッケー。じゃあ、源氏名ね。何がいい?」


「……源氏名……?」


「本名は使わないから。凪、何かいいのある?」


 凪が、ゆっくりと顔を上げた。


「……莉愛りあ、とか?」


「莉愛ね。いいじゃん、それっぽい顔してる。じゃあ、莉愛で行こう」


 店長が、タブレットのメモを更新する。


 莉愛。


 凪の声が耳に残った。その音が、泥の底に沈みかけた体に、一本の細い糸を渡した。


 これから触られて、汚されて、壊されていくのは紬ではない。莉愛が、前に立ってくれる。


「じゃあ、仕事の説明ね」


 店長は、デスクに置かれた加湿器の蒸気を眺めながら、淡々と話し始めた。


「うちは、アロマエステ。基本はリラクゼーションだから。ホテルに行くけど、デリヘルとかじゃないから。部屋も綺麗だし、安心していいよ」


「……はい」


「大事なのは。お客さんに体、触らせないこと。触られそうになったら、拒んでいいから」


 店長の言葉は、呆れるほどに白々しく、そして清潔だった。


「でも、お客さんによっては、ちょっとくらい触ってくる人もいるかもしれない。その時は、莉愛ちゃんが適当に流して。分かるよね?」


 適当に流す。

 その曖昧な言葉の裏側に、どれほど無数の「汚れ」が隠されているか、紬には分かっていた。

 けれど、もう後戻りはできない。凪の視界に入り続けるためなら、この濁った泥水に片足を突っ込むことなど、もう。


「……はい」


 紬は、深く、深く頷いた。



「じゃあ、研修ね。いつもは女の子に教えてもらうんだけど……」


 店長は、紬の強張った肩を軽く叩いた。


「莉愛ちゃん、めちゃくちゃ怖がってるからさ。凪、ちょっと協力してあげてよ。知ってる相手の方が、莉愛ちゃんも指が動くだろ? 本番で逃げ出さないように、最低限の『形』だけは叩き込んでおきたいからさ」


 凪が、少しだけ眉を上げた。


「……あぁ、はい」


 それは、コーヒーを淹れるのを頼まれた時のような、あまりに軽い承諾だった。


「じゃ、こっちの部屋で」


 案内されたのは、窓のない、三畳ほどの狭い個室だった。

 置かれているのは、使い古された簡易ベッドが一つだけ。


 凪が、迷いなくベッドに横たわった。普段着のまま、うつ伏せになる。


「じゃあ、莉愛ちゃん。今はオイルは使わないから。服の上からでいい、まずは足から順に触って」


 店長が凪の真横に立ち、手本を見せるように、ためらいなくその体に手を置いた。


「悪ぃな凪、おっさんの手で。今度いい酒奢るからさ」


 店長が軽い調子で、足をぐりぐりと揉みほぐした。


「……はい。正直、めちゃくちゃ気持ち悪いです」


 凪がシーツに顔を埋めたまま、低く笑い混じりの声を漏らした。

 そのやり取りを聞いた瞬間、紬は笑うこともできずに、心臓がひりひりと焼けるような感覚に陥った。


「ほら、莉愛ちゃん。やってみて。下から上に、流すように」


 店長が場所を空ける。紬は、ベッドの傍らへ立ち、ゆっくりと、凪に触れる。

 布越しに、温かい体温が伝わってくる。

 凪の、生きた温度。

 

 これを、これから出会う、名も知らない、剥き出しの肌を晒した男たちにする。


 紬の指先が、痙攣するように震えた。


「大丈夫、もっと力抜いて。撫でるんじゃなくて、圧をかけるんだ。もっと滑らかに」


 店長の声が、遠くから聞こえる。


 紬は、指示に従って凪の輪郭をなぞった。

 凪は、何も言わない。

 ただ、そこに横たわっている。

 シーツに押し当てられたその顔に、どんな感情が浮かんでいるのかも分からない。


 この人は、何も感じていない。

 私の手が、凪さんの体に、こんなにも無残に触れているのに。


 店長が見ている。

 凪さんが横たわっている。

 そして、私は「莉愛」として、彼の体に触れている。

 

 仕事の練習。

 ただの練習。

 でも——

 

 紬の胸が、締め付けられた。


「オッケー、じゃあ最後ね」


 店長の声が、一段と低くなった。


「最後は、手で。……分かるよね?」


「……」


「ただ動かすだけじゃダメだよ。客は『作業』をされに来るんじゃない。

自分だけが特別だっていう幻想を買いに来るんだから」


 手で。

 その言葉の意味が、どろりとした汚泥のように脳内に染み渡る。

 

 紬は、短く頷いた。

 頷く以外に、この場をやり過ごす術を知らなかった。

 

「まあ、莉愛ちゃんも経験あるみたいだし。今は実際にやらなくていいよ。本番、ぶっつけでいけるだろ」


 店長が、慣れた調子で笑った。


「じゃあ、オッケー。研修終わり。あとは実践で覚えて」


 凪が、音もなくベッドから起き上がった。

 流れるような動作でシャツの裾を整え、何事もなかったかのように、凪という「人間」に戻っていく。


 そして、紬に視線を向けた。


「莉愛ちゃん、大丈夫?」


 紬の指が、ぴたりと止まった。

 一瞬、誰のことを呼ばれたのか分からなかった。

 

 ――ああ、私だ。莉愛は、私のことだ。

 

「……はい、大丈夫です」


 紬は、最後まで凪の目を見ることができなかった。



「じゃあ、莉愛ちゃん。待機室案内するね」


 店長が、廊下を歩き出す。

 壁の両側には、一人がやっと通れるほどの幅で、番号だけが振られた素っ気ないドアが等間隔に並んでいる。


 店長が、その中の一つのドアを開けた。


「ここ。莉愛ちゃんの場所」


 半畳にも満たない、歪な長方形。窓はなく、天井の低い蛍光灯がジジジ、と耳障りな音を立てている。


 足を伸ばすことすら叶わない。壁は驚くほど薄い。隣の部屋から、床に置かれたスマホが震える「ブーッ、ブーッ」という神経を逆撫でする振動音と、それから、感情の死んだような短い咳払いが一つだけ聞こえてきた。


 誰も喋らない。ただ、薄い壁一枚隔てた向こう側に、自分と同じように息を潜めている「商品」が確かに存在している。その気配だけが、この閉塞した空間に充満していた。


「お客さんから予約が入ったら、外から呼ぶから。準備して出てきてね」


「……はい」


 紬の声は、その狭い箱の中で反響することもなく、壁に染み付いた古びた湿気に吸い込まれた。


 重い静寂が、紬を押し潰そうとした。その時。

 閉まりかけたドアの隙間から、凪が顔を覗かせた。廊下の明るい光を背負った彼は、相変わらず清潔で、そして残酷なまでに優しかった。


「莉愛ちゃん。終わったら連絡して。……顔見に来るよ」


「……はい。待ってます」


 紬が答えると、凪は微笑み、静かにドアを閉めた。


 紬は、埃っぽいクッションフロアに膝を抱えて座っていた。

 握りしめたスマホの画面を見つめる。デジタル時計の数字は、まるで凍りついたかのように進まない。


 呼ばれなければいい。

 このまま誰にも見つからず、朝が来て、この箱ごと消えてしまえばいい。

 けれど——お金が。凪さんが。

 ここで「莉愛」として売れなければ、私はあの部屋に居る理由を失ってしまう。


 矛盾した願いが、喉の奥で濁った泥のように渦巻いていた。

 スマホの画面には、凪からの『頑張ってね』という五文字が、無機質に、けれど呪いのように輝いている。


紬は、瞬きを繰り返した。

蛍光灯の光をまぶたに閉じ込めるように。

一、二、三……。


右目がほんの少し遅れて、タイミングがずれる。

もう一度。

二度目。三度目。何度繰り返しても、右目が遅れるような気がする。

まぶたの裏に残像がチカチカと残り続けても、止まらなかった。


 その時。

 薄いベニヤ板一枚を隔てた廊下から、現実を引き裂くような声が響いた。


「莉愛ちゃーん、さっそく一本入ったよー。準備して出てきて!」


 紬の心臓が、跳ねた。


 最後に一度だけ、強く目を閉じた。

 止まらない瞼を力づくで押さえつけるように。


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