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愛着のスノードーム  作者: 沈丁花


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第5話:悪魔と深い海の間に


紬が前職を退職してから、二ヶ月が経っていた。

 

 凪とのLINEは、細い糸のように続いていた。空の雲、雪の予報、眠れない夜の独り言。

 そのなんでもないやり取りだけが、紬をかろうじて「日常」に繋ぎ止めていた。


 けれど、今朝は違った。

 紬の貯金は、呼吸をするたびに少しずつ削り取られる砂時計のように底を突いた。


 「今月はまだ、どうにかなる」

 そう自分に言い聞かせていた。

 

 でも、今日それは幻想だったと気づいた。

 

 一週間、開ける勇気のなかったポストには、色も大きさも違う数通の封筒が、整然と横たわっていた。


家賃。それから——年金、保険、税金。


 並んだ文字と無機質な数字が、そのまま彼女の視神経を深く刺した。


「……こんなに……?」


 免除や猶予の制度は、どこかにはあったのだろう。けれど、それを探すだけの知識も、説明を理解する思考力も、今の紬からは剥ぎ取られていた。


 会社という殻を脱いだ瞬間、彼女を保護していた薄皮は霧散し、むき出しの肌に、請求という名の冷気だけが絶え間なく吹き付ける。働いていないのに、生きているだけで罰金を取られているような気分だった。


通帳の残高は、十万を切っている。

 もう、足りない。

 明日食べるパンも、生理用品も、何も買えなくなる。


 ふいに、紬の手が震えた。

 スマホに灯った『通信料金のお知らせ』の通知。

 それが、彼女の最後の一線を越えさせた。これが止まれば、凪と連絡が取れなくなる。

 凪と繋がれなくなったら、もうどこにも居場所がない。

 通知を消そうとした指が、母からのメッセージを拾う。

『○○ちゃん、来月結婚するって。あなたも早く相手見つけなさい』

『働けないなら、せめて婚活くらいしたら?』


 結婚、普通、女の幸せ。母の言葉はいつも、正論という名の鈍器で紬を殴りつける。

 「結婚」「婚活」という文字に触れた指先が、汚れたような気がして、袖で拭った。一回、二回、三回。

 それでも、汚れは皮膚の奥に染み込んでいく。


「……助けて」

 

 呟いた声は、乾燥した部屋の空気に吸い込まれて消えた。

 震える指で、凪に電話をかける。彼に拒絶されたら、もう全て終わらせてしまおう。そんな極端な思考だけが、彼女にスマホを握らせる勇気を与えた。


 三回目のコールで、重苦しい音が止まった。


『紬ちゃん、どうした?』


「……凪さん、私、もう……」


『……えっと。……今、出てこれる?』


 凪の、すべてを見透かしたような、それでいて何も咎めない温度のない声。

 この人だけは、私を「普通」の枠に押し込めない。地獄にいる私を、地獄のまま受け入れてくれる。紬の胸は、泣き出しそうなほどの安堵で締め付けられた。



 駅前の小さな公園。冬のネオンが、コンクリートを冷たく彩っている。

 ベンチに座る凪は、暗闇に溶けそうなほど静かにタバコを吸っていた。吐き出される煙が、夜の湿度を孕んで白く、重く揺れる。


「紬ちゃん」


 凪が軽く手を振る。紬は、迷子の子犬のように小走りで彼に近づいた。


「……こんばんは」


「座りなよ」


 促されるまま隣に座ると、凪の服から移った甘いタバコの匂いが鼻腔をくすぐった。バニラのような、それでいて肺の奥を焦がすような耽美な香り。この匂いを嗅ぐと、痙攣していた心臓が少しずつ凪いでいく。


「……どうしたの? 何かあった?」


 凪の問いかけに、紬の喉の奥がせり上がった。


「……お金が、なくて。家賃も、保険も……全部。バイトも、私みたいな人間、どこも雇ってくれなくて……」


 言葉を吐き出すたび、自分が惨めで汚い生き物になった気がした。涙を堪えるために、再び指の付け根に爪を立てる。凪は何も言わず、ただ最後の一服を深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。その横顔は、困っているようにも、すべてを諦めているようにも見えた。


「凪さん……やっぱり、お仕事。紹介してほしいです」


 凪の動きが、僅かに止まった。

 タバコを持つ指先が、ほんの一瞬だけ、躊躇うように震えた気がした。


「本気? 紬ちゃん、そういうの苦手だと思ってたけど」


「はい。けど……私でも、できますか?」


 紬の不安が、言葉になって溢れ出す。


「お客さんと、上手く話せるか、わからなくて……」


「……あぁ、そういうこと」


 縋るような紬の視線を受け、凪は少しだけ目を細めて笑った。


「紬ちゃん可愛いし、大丈夫だと思うよ。……ちょうどいいやつがある。会話しなくていいやつ」


「……え?」


「リラクゼーション系……アロマエステっていうんだけどね。喋るのが苦手な紬ちゃんにはぴったりだと思う。お客さんの体を癒してあげるだけの、静かな仕事」


 凪の説明は、どこまでも清潔で、事務的だった。それが逆に、紬の心にある「汚れ」への恐怖を麻痺させていく。


「それって、……体に触れる、んですよね?」


 胃の奥に冷たい石を詰め込まれたような、生理的な嫌悪が込み上げる。他人の肌、知らない男の体温。想像するだけで肌に粟が立つ。

 けれど、凪は少しだけ眉を下げ、慈しむように彼女を見つめた。


「まぁ、そこはね。でも、自分が触れられそうになったら拒んでいいから。そんなにきつくないと思うよ。……けど、紬ちゃんが嫌なら――」


「……大丈夫です。やります」


 凪の手を離したくない。そのためなら、自分が汚れることなど、安い対価に思えた。


「お金、必要なんです。凪さんの……そばにいたいから」


 最後の一言は、飲み込んだ。

 凪はタバコを消し、紬の目を見つめた。その瞳には、彼女への同情も、欲望も、何一つ映っていない。ただ、深い夜の色をしているだけ。


「……わかった。じゃあ、店の人に話しておくね。無理しないで。辛かったら、いつでも俺に言って」


 その言葉に、紬は嘘のような安堵を覚えた。凪は、紬がどれほど汚れようとしても、見捨てなかった。

 雑居ビルの不規則なネオンに照らされた凪の横顔は、世界で一番美しく、彼女を地獄へと誘う優しい蜘蛛の糸のように見えた。


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