第4話:繋がる糸
喫茶店で凪と別れてから、数日が経った。紬のスマホには、凪からのメッセージが届くようになっていた。
凪:今日も白線、歩いた?
紬は、その一行を何度も読み返した。
馬鹿にしているわけでもなく、心配しているわけでもない。ただ、そこにいることを確認するような、温度のない問いかけ。
紬:歩きました
紬:凪さんは?
凪:俺も
凪:今日は雨降りそう
白線のこと、雨のこと、コンビニのコーヒー。
意味を持たない言葉の羅列が、紬の肺に微かな空気を送り込む。凪は、何も求めてこない。何も期待しない。その「清潔な無関心」が、今は何よりも心地よかった。
ある夜、いつものようにメッセージを送った。
紬:今日も、面接落ちました
既読はすぐについた。
けれど、返信が来ない。
紬はスマホを握りしめ、青白い画面を見つめ続けた。
一分、五分、十分。
凪からの言葉は、いつまで経っても届かない。
――何かあったのかな。連絡、しすぎたかな。
気づくと紬は、薄い上着を羽織って部屋を飛び出していた。
玄関の鍵を閉め、階段を駆け下りる。けれど、三段目で心臓が跳ねた。
――鍵、閉めた?
閉めたような気がする。指先に残る金属の冷たい感触を脳が覚えている。
それでも、確認しなければこのまま世界が崩壊するような恐怖に襲われ、紬は三段分を逆走した。
ドアノブを掴み、強く引く。一回、二回、三回。
ガチャガチャと鳴る無機質な音が、鍵がかかっていることを証明する。
「大丈夫、閉めた。閉めた」
自分に言い聞かせ、再び階段を降りる。
今度は五段目だった。
――電気、消したっけ?
電気ぐらい、消し忘れても対した問題にはならない。でも、電気代が払えなくなるかもしれない。
一度よぎった不安は、泥水のように脳内に広がっていく。
「……大丈夫、電気代なんて、払えないほど高くない。大丈夫」
呟きながらあと数段を降りたところで、先ほどの「鍵」への確信が、音を立てて崩れた。
――じゃあ、鍵は?
「……閉めた。さっき、確認しに戻った。大丈夫、閉めてる。大丈夫」
紬の足が止まる。呼吸が浅くなる。
戻りたくない。早く凪のところへ行きたい。
けれど、見えない鎖に引き摺られるように、彼女はまたドアの前へ戻っていた。
ドアノブを引く。鍵は、かかっている。
閉めた。閉めた。閉めた。
彼女はようやくアパートを脱出した。
手のひらには、ドアノブを握りしめた時の鈍い痛みが、刻印のように赤く残っていた。
⸻
午前一時。
初めて凪と出会った交差点。
今夜は雨が降っていない。
不快なネオンの光が、乾いたアスファルトを毒々しく照らしている。
紬は、白い線からはみ出さないよう、祈るような足取りで歩いた。
もしかしたら、ここにいれば。
「……いた」
雑居ビルの壁にもたれ、凪がスマホを操作していた。黒いパーカーのフードを被ったその姿は、夜の闇に吸い込まれそうなほど寂しげで、同時に、誰の手も届かないほど綺麗に見えた。
紬の足が止まる。声をかけるべきか、でも——重いかもしれない。
葛藤するより早く、凪が顔を上げた。
「……紬ちゃん?」
凪は少しだけ目を見開き、それから困ったように笑った。
「こんな時間にどうしたの? 散歩?」
「……はい。なんか、眠れなくて……」
凪はスマホをポケットに入れて、紬に近づいた。甘いタバコの匂いがふわりと漂う。この匂いを嗅ぐと、痙攣していた心臓がようやく静まった。
「ごめんね、連絡。ちょうど今、返そうと思ってたところ」
凪はそう言って、少しだけ申し訳なさそうに笑った。その言葉が嘘か本当かなんて、どうでもよかった。彼が自分を認識してくれた。それだけで、世界に色が戻る。
「……お仕事中、だったんですか?」
「うん。まあ、そんな感じ」
その時、鋭いヒールの音が夜の静寂を切り裂いた。
「あ、凪だ。お疲れーっ」
振り返ると、夜の輪郭をまとった二人の女が、凪に親しげに手を振っていた。
短いスカートから伸びる、寒さを知らない生足。夜の空気に完璧に馴染んだ、こなれた笑顔。
彼女たちの視線は凪だけに固定され、その傍らに立つ紬のことなど、路傍の石ころほどにも意に介さない。
「今帰り? お疲れ」
凪はいつもの穏やかな、けれど誰にでも平等に向けられる「清潔な笑顔」で返した。
「うん!凪も頑張って。また明日ね」
茶髪の子の手が、凪に向けて小さく、けれど執拗に振られる。
それを茶化すように、隣の黒髪の子が肩をぶつけた。顔を寄せ、密やかな言葉を耳元に滑り込ませる。
「……もう、やめてよ」
弾むような否定と、隠しきれない高揚。街灯の下、茶髪の子の耳たぶが熱を持ったように朱く透けた。
二人の笑い声が、リズムを刻むヒールの音と混ざり合いながら、夜の帳の向こうへ溶けていく。
紬はその場に縫い付けられたように、ただ立ち尽くしていた。
――あの子は、凪さんのこと……。
胸の奥を、毒の混じった泥がゆっくりと流れていく。
凪が自分に見せる優しさが、彼女たちに与えているものと何ら変わらない「ただの仕事」の一環かもしれないという疑念。
「……今の、人たち……」
「ああ、前に仕事を紹介した子たち。定期的にフォローしてるんだよ」
凪は淡々と、濁りのない声で言った。
仕事。その二文字が、紬の脳内で焼けつくような熱を持って弾けた。
凪は、「仕事」を通して、あの子たちと繋がっている。彼女たちが仕事をしている限り、凪は彼女たちを捨てない。
「そう……なんですね」
紬の心に、小さな、けれど確かな欲望が根を張った。
凪の道具になれば、この繋がりを守れる。捨てられないための、絶対的な理由。
その歪んだ確信が、紬の胸をひたひたと満たしていった。
⸻
それから数日。
紬は、相変わらず仕事の面接に落ち続けた。
通帳の残高を見るたびに、胃の奥が冷たくなる。家賃、通信費、食費。でも、今月はまだ、どうにかなる。
そう自分に言い聞かせながら、紬は求人サイトを開いた。
スマホに灯った凪からの『元気?』というメッセージ。
紬は、震える指で文字を打った。
紬:元気です
嘘をついた。
雨が、また降り始めた。




