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愛着のスノードーム  作者: 沈丁花


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3/5

第3話:影になる


 あの雨の夜から、三日が経った。

 紬の部屋は、静まり返っている。三日間、誰の声も聞かず、ただスマホの画面が放つ無機質な光だけを、網膜に焼き付けていた。


 紬のスマホには、凪からのメッセージが届いていた。


凪:元気?


 紬は画面を見つめたまま、返信の文章を何度も打ち直した。

 元気、と嘘をつくべきか。元気じゃない、と正直に言うべきか。


紬:元気です

紬:パーカー、返したいです


 既読がつくまで、十秒。返信が来るまで、三十秒。

 紬は息を止め、スマホを握る指先に力を込めた。


凪:じゃあ、会おうか

凪:明日、時間ある?


 紬の指先が震えた。会いたい、と思ってしまった自分が、怖かった。

 「あります」と一言返して、紬はスマホを胸元に抱きしめた。



 翌日の午後。駅前のロータリーは、逃げ出したくなるほどの喧騒に包まれていた。

 紬は、丁寧に畳んで紙袋に入れたパーカーを、何度も指先で確認する。シワひとつない。左右の袖も完璧に揃っている。


「紬ちゃん」


 背後から届いた、少しハスキーな声。

 振り返ると、凪がそこにいた。少しだけ跳ねた髪と、使い古されたような黒いジャケット。タバコの残り香が、都会の排気混じりの風に乗って、紬を包み込んだ。


「……こんにちは」


 紬は視線を落とした。彼の瞳を直視すると、自分の醜い不安がすべて透けて見えてしまいそうだった。


「歩こうか。近くに落ち着ける店があるんだ」


 凪が歩き出し、紬はその半歩後ろを追う。少し猫背な彼の背中。時々、ポケットに手を突っ込んだまま空を見上げる無防備な仕草。

 ――この人の隣を歩けている。

 それだけで、紬の胸の隙間が、泥を流し込んだような重苦しい幸福感で満たされていく。


 前方に、一本の街路樹が見えた。凪が吸い込まれるように左側へ避ける。紬も反射的に、同じ左側へ足を踏み出した。

 もし別の道を選んで、木に二人の間を引き裂かれたら、もう二度と彼と同じ場所には戻れない――そんな、根拠のない恐怖が彼女を突き動かした。


「紬ちゃん、よく避ける方向を合わせてくれるよね」


 凪が不意に足を止め、こちらを振り返った。その顔には、困ったような、けれど柔らかな笑みが浮かんでいる。


「……え?」


「さっきも、俺が避けた方に避けてくれたでしょ。気を遣ってくれてるのかなって」


 紬の息が、一瞬止まった。

 見抜かれている。けれど、凪の瞳に軽蔑の色はなかった。


「……なんとなく、です」


「そっか。……なんか、嬉しいな」


 紬の心臓が、大きく跳ねた。

 異常だと思われる、と身構えていた「儀式」は、凪の魔法のような解釈によって「気遣い」へと変換された。否定されないことが、こんなにも体を軽くするなんて知らなかった。



 案内されたのは、時間の止まったような古びた喫茶店だった。

 凪が手を伸ばすより早く、紬はコートの袖を手のひらまで引き込み、身を乗り出すようにしてドアノブを掴む。

 布越しに伝わる、幾人もの脂が塗りたくられたような、粘りつく不快感。金属の冷たさすら、他人の体温に汚されている気がして吐き気がした。


 凪の指を、こんな場所に触れさせるわけにはいかない。彼には、清潔なままでいてほしかった。


 店内は、湿った木とコーヒー豆の焦げた匂いで満たされていた。

 ボックス席に座り、テーブルの下で手のひらを擦り合わせる。汚れが剥がれ落ちるのを祈るように。

 一回、二回、三回。

 ドアノブに触れた感触が、まだ残っている気がして。


「コーヒーでいい?」


 凪の問いに、紬はただ小さく頷いた。

 紙袋からパーカーを取り出し、テーブルに置く。


「……ありがとうございました。洗濯も、しました」


「別に洗わなくてよかったのに。……あ、でも、いい匂いだね」


 凪がパーカーのフードに顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。その無防備な仕草に、紬は喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……で、紬ちゃん。最近、どう?」


 運ばれてきたコーヒーの湯気の向こうから、凪が優しく問いかける。


「……あんまり、よくないです。家賃とか、来月の生活費とか……。貯金がどんどん減っていくのを見てると、自分が少しずつ消えていくみたいで」


 紬はカップを両手で包んだ。自分一人では支えきれない不安を、誰かに、それも凪にだけは知ってほしかった。


「仕事、辞めたって言ってたよね」


「はい。……バイトも探してるんですけど……面接で落ちて」


 凪は黙って、コーヒーを飲んでいた。その沈黙が、紬には心地よかった。同情されるより、正論を言われるより、ただ黙って隣にいてくれる方が、呼吸が楽だった。


「……親には、相談できないの?」


「……できないです。親からは……『普通になれ』って、そればっかり連絡が来て。返信しようとすると、指が動かなくなるんです」


 凪は「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。ただ、そこにある孤独をそのまま受け入れている。


「……そっか。親御さんの言う『普通』って、きっと紬ちゃんを殺しちゃうんだろうね」


 その言葉が、紬の心の一番深い場所に届いた。


「……凪さんは、仕事、順調ですか?」


 紬が恐る恐る尋ねると、凪は少しだけ笑った。


「まあ、忙しいかな」


「どんな仕事、してるんですか?」


 凪はストローの袋を指先で弄りながら、少しだけ考えて答えた。


「仕事を探してる人と、人が欲しいお店を繋ぐ仕事かな」


 凪は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。


「……仕事を? もしかして、私も、凪さんのところでできそうな仕事とか……」


 紬が縋るように聞くと、凪は一瞬、困ったように視線を外した。


「うーん。……夜の仕事ばっかりだけどね。紬ちゃん、そういうの嫌いそう」


 その「突き放すような優しさ」が、紬の胸をざわつかせた。

 夜の仕事。あの、ネオンの街の、裏側。


「……紬ちゃん、引いた?」


「いえ」


 紬は必死に首を横に振った。


「……凪さんがしてることだから」


 この人が関わっている場所なら、きっと私のような「普通」になれない人間でも、居場所があるのではないか。そんな、毒を含んだ希望が胸をかすめる。


「そっか。……ありがとう」


 凪は安心したように笑った。


——


 喫茶店を出て、駅前で別れる。


「また連絡するね」


「……はい」


 紬は頷いた。もう会えないかもしれない、という不安が、肺の奥を締め付ける。


「紬ちゃん、無理しないでね」


 凪はそう言って、手を振った。

 紬は、遠ざかる背中をじっと見送った。鼻腔に残ったタバコの残り香が、彼女の執着を煽る。


 ――この人の隣にいたい。この人に、必要とされたい。

 

紬の心に芽生えた小さな欲望は、光の届かない深みへと自分を誘い込む(いかり)になるとも知らず、暗い土壌に静かに根を張っていった。


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