第3話:影になる
あの雨の夜から、三日が経った。
紬の部屋は、静まり返っている。三日間、誰の声も聞かず、ただスマホの画面が放つ無機質な光だけを、網膜に焼き付けていた。
紬のスマホには、凪からのメッセージが届いていた。
凪:元気?
紬は画面を見つめたまま、返信の文章を何度も打ち直した。
元気、と嘘をつくべきか。元気じゃない、と正直に言うべきか。
紬:元気です
紬:パーカー、返したいです
既読がつくまで、十秒。返信が来るまで、三十秒。
紬は息を止め、スマホを握る指先に力を込めた。
凪:じゃあ、会おうか
凪:明日、時間ある?
紬の指先が震えた。会いたい、と思ってしまった自分が、怖かった。
「あります」と一言返して、紬はスマホを胸元に抱きしめた。
翌日の午後。駅前のロータリーは、逃げ出したくなるほどの喧騒に包まれていた。
紬は、丁寧に畳んで紙袋に入れたパーカーを、何度も指先で確認する。シワひとつない。左右の袖も完璧に揃っている。
「紬ちゃん」
背後から届いた、少しハスキーな声。
振り返ると、凪がそこにいた。少しだけ跳ねた髪と、使い古されたような黒いジャケット。タバコの残り香が、都会の排気混じりの風に乗って、紬を包み込んだ。
「……こんにちは」
紬は視線を落とした。彼の瞳を直視すると、自分の醜い不安がすべて透けて見えてしまいそうだった。
「歩こうか。近くに落ち着ける店があるんだ」
凪が歩き出し、紬はその半歩後ろを追う。少し猫背な彼の背中。時々、ポケットに手を突っ込んだまま空を見上げる無防備な仕草。
――この人の隣を歩けている。
それだけで、紬の胸の隙間が、泥を流し込んだような重苦しい幸福感で満たされていく。
前方に、一本の街路樹が見えた。凪が吸い込まれるように左側へ避ける。紬も反射的に、同じ左側へ足を踏み出した。
もし別の道を選んで、木に二人の間を引き裂かれたら、もう二度と彼と同じ場所には戻れない――そんな、根拠のない恐怖が彼女を突き動かした。
「紬ちゃん、よく避ける方向を合わせてくれるよね」
凪が不意に足を止め、こちらを振り返った。その顔には、困ったような、けれど柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……え?」
「さっきも、俺が避けた方に避けてくれたでしょ。気を遣ってくれてるのかなって」
紬の息が、一瞬止まった。
見抜かれている。けれど、凪の瞳に軽蔑の色はなかった。
「……なんとなく、です」
「そっか。……なんか、嬉しいな」
紬の心臓が、大きく跳ねた。
異常だと思われる、と身構えていた「儀式」は、凪の魔法のような解釈によって「気遣い」へと変換された。否定されないことが、こんなにも体を軽くするなんて知らなかった。
案内されたのは、時間の止まったような古びた喫茶店だった。
凪が手を伸ばすより早く、紬はコートの袖を手のひらまで引き込み、身を乗り出すようにしてドアノブを掴む。
布越しに伝わる、幾人もの脂が塗りたくられたような、粘りつく不快感。金属の冷たさすら、他人の体温に汚されている気がして吐き気がした。
凪の指を、こんな場所に触れさせるわけにはいかない。彼には、清潔なままでいてほしかった。
店内は、湿った木とコーヒー豆の焦げた匂いで満たされていた。
ボックス席に座り、テーブルの下で手のひらを擦り合わせる。汚れが剥がれ落ちるのを祈るように。
一回、二回、三回。
ドアノブに触れた感触が、まだ残っている気がして。
「コーヒーでいい?」
凪の問いに、紬はただ小さく頷いた。
紙袋からパーカーを取り出し、テーブルに置く。
「……ありがとうございました。洗濯も、しました」
「別に洗わなくてよかったのに。……あ、でも、いい匂いだね」
凪がパーカーのフードに顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。その無防備な仕草に、紬は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……で、紬ちゃん。最近、どう?」
運ばれてきたコーヒーの湯気の向こうから、凪が優しく問いかける。
「……あんまり、よくないです。家賃とか、来月の生活費とか……。貯金がどんどん減っていくのを見てると、自分が少しずつ消えていくみたいで」
紬はカップを両手で包んだ。自分一人では支えきれない不安を、誰かに、それも凪にだけは知ってほしかった。
「仕事、辞めたって言ってたよね」
「はい。……バイトも探してるんですけど……面接で落ちて」
凪は黙って、コーヒーを飲んでいた。その沈黙が、紬には心地よかった。同情されるより、正論を言われるより、ただ黙って隣にいてくれる方が、呼吸が楽だった。
「……親には、相談できないの?」
「……できないです。親からは……『普通になれ』って、そればっかり連絡が来て。返信しようとすると、指が動かなくなるんです」
凪は「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。ただ、そこにある孤独をそのまま受け入れている。
「……そっか。親御さんの言う『普通』って、きっと紬ちゃんを殺しちゃうんだろうね」
その言葉が、紬の心の一番深い場所に届いた。
「……凪さんは、仕事、順調ですか?」
紬が恐る恐る尋ねると、凪は少しだけ笑った。
「まあ、忙しいかな」
「どんな仕事、してるんですか?」
凪はストローの袋を指先で弄りながら、少しだけ考えて答えた。
「仕事を探してる人と、人が欲しいお店を繋ぐ仕事かな」
凪は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。
「……仕事を? もしかして、私も、凪さんのところでできそうな仕事とか……」
紬が縋るように聞くと、凪は一瞬、困ったように視線を外した。
「うーん。……夜の仕事ばっかりだけどね。紬ちゃん、そういうの嫌いそう」
その「突き放すような優しさ」が、紬の胸をざわつかせた。
夜の仕事。あの、ネオンの街の、裏側。
「……紬ちゃん、引いた?」
「いえ」
紬は必死に首を横に振った。
「……凪さんがしてることだから」
この人が関わっている場所なら、きっと私のような「普通」になれない人間でも、居場所があるのではないか。そんな、毒を含んだ希望が胸をかすめる。
「そっか。……ありがとう」
凪は安心したように笑った。
——
喫茶店を出て、駅前で別れる。
「また連絡するね」
「……はい」
紬は頷いた。もう会えないかもしれない、という不安が、肺の奥を締め付ける。
「紬ちゃん、無理しないでね」
凪はそう言って、手を振った。
紬は、遠ざかる背中をじっと見送った。鼻腔に残ったタバコの残り香が、彼女の執着を煽る。
――この人の隣にいたい。この人に、必要とされたい。
紬の心に芽生えた小さな欲望は、光の届かない深みへと自分を誘い込む錨になるとも知らず、暗い土壌に静かに根を張っていった。




