第2話:甘い弾丸を噛む
差し出された黒い傘の下、紬は雨の重みに縫い付けられたように立ち尽くしていた。
不審者だ、と脳の隅で警告が鳴っている。けれど、雨に打たれすぎて体温を失った体は、凪の持つ傘の「影」に、どうしても縋りたがっていた。
――どれくらい、こうして黙っていたのだろう。
凪は何も聞いてこなかった。
どこから来たのか、何があったのか、これからどうするのか。
そういう「正しい質問」を一切せず、ただ雨を眺めていた。
その沈黙が、紬には不思議なほど心地よかった。
「……これ、食べる?」
不意に、凪がポケットから小さな銀色の包みを取り出した。安価で甘い匂いのするミルクチョコレート。彼は慣れた手つきで包装を破り、ひょいと紬の口元へ差し出す。
「……いいです。知らない人からもらったもの、食べられないので」
紬は視線を逸らして、頑なに拒んだ。睡眠薬、あるいはもっと酷い何か。夜の街の常識を必死にかき集めて、自分を守ろうとする。
「あはは、そりゃそうだ。警戒心、大事だよね」
凪は全く気分を害した様子もなく、銀紙を剥いて自分の口に放り込んだ。
「ほら、毒味。……ん、甘い。普通の、どこにでもあるチョコだよ。……ちょっと溶けてるけど」
その言葉の意図を測りかねて、紬は黙り込む。凪は咀嚼しながら、もう一つを紬の手に置いた。温度がほんの少しだけ残っている。
紬は、手の中のチョコをじっと見つめた。
捨てるべきか。でも、捨てたら、彼を傷つけるかもしれない。
紬は小さく息を吐いて、そっと口に含んだ。
甘い。ただ、甘いだけ。けれど、舌の上で溶けていく感触が、どこか生々しくて、喉の奥が微かに引き攣った。他人の体温を飲み込んでいる。そんな感覚が、胃の奥をざわつかせる。
「……お腹空かない? 雨宿り付き合ってよ。俺……一人でファミレス、入れなくてさ」
紬の指先が、銀紙の端を無意識に撫でた。
行くべきじゃない、知らない男について行くなんて最悪の選択だと頭の片隅では分かっている。でも――凪の「一人で入れない」という、どこか頼りない言葉が、紬の胸に引っかかった。
困っている人を見捨てることができない。頼られたら、断ることができない。そういう自分の弱さを、紬は嫌というほど知っていた。
「……少しだけなら」
紬の声は、雨音に溶けそうなほど小さかった。
――なんで、着いてきちゃったんだろう。
ファミレスのボックス席。明るすぎる蛍光灯の白さが、雨に濡れた紬の視界を容赦なく刺す。
紬は、濡れたコートの袖を掴んで、震える指先を隠そうとした。冷たい。体の芯まで冷え切っている。
「寒いでしょ。これ、着てて」
凪が自分のパーカーを脱ぎ、紬に羽織らせた。タバコと洗剤の匂いが混ざった、生温かい布地。
「……いいんですか」
「全然。俺、暑がりだから」
凪は平然と笑って、店員を呼んだ。
安っぽいコーヒーの匂いと、他人の無邪気な話し声。いつもなら吐き気がするほど「まっとうな世界」の象徴に見えるこの場所が、凪と向かい合っている今だけは、濁流から引き上げられた後のシェルターのように感じられた。
歩いてくる間、凪は何も聞かなかった。
ただ傘を差し、紬が白い線を踏み外さないように、ゆっくりと歩いてくれた。
その「何も求めない優しさ」が、紬の警戒心を少しずつ溶かしていった。
「お姉さん、名前は?」
「……紬、です」
「紬ちゃん。いい名前だね。俺は凪」
凪は店員から受け取ったおしぼりを、自分の手ではなく、先に紬の方へ差し出した。
「あの、何が目的なんですか?」
勇気を振り絞って尋ねた紬に対し、凪はストローの袋を指先で弄りながら、とぼけたように聞き返した。
「ん? 目的って?」
「声かけたのとか、ファミレスとか……」
凪の動きが止まる。彼は視線を上げ、紬の瞳の奥をじっと覗き込んだ。その目は、憐れんでいるようにも、ただ観察しているようにも見えた。
「ああ……。ただ、紬ちゃんがあまりに白線の上を必死に歩くからさ。放っておいたら、そのままどこかへ消えてなくなっちゃいそうでさ」
凪の声は、彼女の心の輪郭をそっとなぞるような響きを持っていた。
「白線の上、俺もよく歩くよ。心を無にしたい時とかさ」
凪の、馬鹿にするでも同情するでもない柔らかい笑顔。紬は、温かいおしぼりを冷え切った指先でぎゅっと握りしめる。
「……私はただ、どこに行けばいいのかも、何をすれば正解なのかも、全部わからなくなっちゃって」
ぽつり、ぽつりと、紬の口から言葉が零れ出す。自分でも驚くほど、声が震えていた。
「普通の仕事も、人間関係も、頑張れば頑張るほど砂みたいに指の間から抜けていって……。気づいたら、何もなくなってて……」
凪は、紬が机の上のスプーンをミリ単位で何度も並べ替える様子を、急かすことなく、ただ静かに見つめていた。その「待ってくれる」沈黙が、彼女の警戒心を一枚ずつ剥がしていく。
「……そっか」
凪は短く頷いて、自分の飲み物を一口だけ含んだ。
それから――何かを言いかけて、やめた。
紬はその「言わなかったこと」が気になった。
何を言おうとしたんだろう。何を隠したんだろう。
「……凪さんは、どうして白線を?」
紬が恐る恐る尋ねると、凪は少しだけ苦笑した。
「……俺もさ、仕事、向いてないなって思うことあるんだよね」
その声には、どこか疲れた響きがあった。
「頑張れば頑張るほど、何か大事なものが抜けていくっていうか……。自分の心も誰かの人生も、削って空っぽにしてる気がして」
凪は窓の外の雨を見つめた。
「……何やってんだろ、俺って」
その言葉は――どこか、滑らかすぎる気がした。
弱さを見せているのに、傷ついていないような。
そんな些細な違和感が、紬の胸を掠めた。
でも、紬はその違和感を、すぐに打ち消した。
この人も、壊れかけているのかもしれない。
――私だけじゃない。
「……凪さんも、悩んだりするんですか?」
「意外? こう見えて繊細なんだよ」
凪は自嘲気味に笑った。その瞳には、誰のことも映っていないような透明な冷たさがあった。そこにいるのに、心の奥は見えない。その「触れられない距離感」が、紬にとってはどんな励ましよりも甘く、魅力的な毒となって思考を麻痺させていった。
——
「これ、俺の。……もし、また白線から落ちそうになったら、いつでも連絡して。仕事の話じゃなくていいから」
店を出て別れ際、凪のLINEを登録する紬の指先は、もう震えていなかった。
「あ、パーカー……」
紬が脱ごうとすると、凪は首を横に振った。
「それ。また今度でいいよ」
「……でも」
「返すついでに、また会えたらいいね」
凪は困ったように笑って、手を振った。
凪の背中を見送りながら、紬は肩に掛かったパーカーをぎゅっと掴んだ。鼻腔には、彼から移った微かなタバコの香りと、雨の匂いが残っていた。
凪いだ海。
その静かな水面は、紬を飲み込みそうで、でも決して飲み込まない。
ただそこにあって、何も映さない。
――もしかしたら、この人の隣なら。
苦しくない世界が、あるのかもしれない。
それが「救い」なのか「呪い」なのか、紬にはまだ分からなかった。




