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愛着のスノードーム  作者: 沈丁花


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1/7

第1話:雨と白線

※本作には、心の不調や精神的に不安定な描写が含まれます。

※強い表現はありませんが、読むことで気持ちが引っ張られやすい方は、体調や気分の良いときに読んでいただくことをおすすめします。


 午前二時。雨に濡れたアスファルトが、毒々しいネオンの赤や青を跳ね返している。

 空気を吸うたび、肺の奥がざらついた。


 少し前まで、自分には帰るべき「普通」があった。けれど、ある朝、肺がゼリーで満たされたように重くなり、社会という歯車から弾き飛ばされた。誰も止めず、誰も心配しなかった。ただ、「代わりはいくらでもいる」という静かな事実だけが残った。


 (つむぎ)は、横断歩道の白い線だけを踏むようにして歩いていた。白、白、白。一歩でも踏み外せば、このまま地面が裂けて、真っ暗な奈落に飲み込まれてしまう。そんな強迫的な予感が、アルコールの抜けた後の重い頭を支配していた。


 スマホを震わせ続ける母からの小言も、獲物を漁るハイエナのような男たちの声も、今の彼女にとっては意味を持たないただの雑音だ。

 指先をポケットに突っ込み、爪を人差し指の付け根に深く食い込ませる。一、二、三。痛みだけが、かろうじて自分の輪郭を繋ぎ止めていた。


 そのときだった。

 視界の隅に、真っ黒な傘がスッと差し込まれた。

 ネオンの光を遮る、穏やかな影。


「……大丈夫?」


 低くて、少しだけハスキーな声。

 それは、獲物を探すスカウトの鋭さとは無縁の、どこか疲れ果てたような、けれどひどく透明な響きだった。


 紬は足を止めた。白線から数センチ、足がはみ出していた。

けれど、奈落はやってこなかった。


 ゆっくりと顔を上げると、そこには黒いパーカーを着た一人の男が立っていた。


 男――(なぎ)は、困ったように眉を下げて、紬を見つめていた。その瞳は、夜の街には不釣り合いなほど穏やかで、まるで凪いだ海のように何も映していない。


「……死にそうな顔してるよ」


 凪は静かにそう言って、傘を少し傾けた。


「……俺も、よく夜中に歩くんだ。眠れない時とか、考えたくない時とか」


 その声には、同情も、正論も、救いの言葉もなかった。

 ただ、そこにいるだけ。


「傘、入る? 濡れてると風邪ひくよ」


 紬の喉の奥から、乾いた音が漏れた。

 返すべき言葉が見つからない。けれど、彼の差し出す傘の下は、この街で唯一、空気がまともに吸える場所のように思えた。


 ――ああ、この人は何も求めてこない。

 紬の胸の奥で、何かが少しだけ緩んだ。


 紬は、ゆっくりと凪の傘の下に入った。

 雨音が遠くなる。ネオンの光が、少しだけ柔らかくなる。

 そして――肺に、空気が入った。

 ほんの少しだけ、呼吸が楽になった気がした。

 

 凪の横顔は、曇りガラス越しに見る景色のように、そこにあるのに触れられない距離感があった。

 この人は、何を考えているんだろう。

 

 ――でも、今は。

 今だけは、この傘の下にいたかった。

 

 紬は視線を落としたまま、ただ立ち尽くしていた。

 凪は何も聞かず、ただ黙って雨を見ていた。

 

 雨は、まだ止む気配がなかった。


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