第1話:雨と白線
※本作には、心の不調や精神的に不安定な描写が含まれます。
※強い表現はありませんが、読むことで気持ちが引っ張られやすい方は、体調や気分の良いときに読んでいただくことをおすすめします。
午前二時。雨に濡れたアスファルトが、毒々しいネオンの赤や青を跳ね返している。
空気を吸うたび、肺の奥がざらついた。
少し前まで、自分には帰るべき「普通」があった。けれど、ある朝、肺がゼリーで満たされたように重くなり、社会という歯車から弾き飛ばされた。誰も止めず、誰も心配しなかった。ただ、「代わりはいくらでもいる」という静かな事実だけが残った。
紬は、横断歩道の白い線だけを踏むようにして歩いていた。白、白、白。一歩でも踏み外せば、このまま地面が裂けて、真っ暗な奈落に飲み込まれてしまう。そんな強迫的な予感が、アルコールの抜けた後の重い頭を支配していた。
スマホを震わせ続ける母からの小言も、獲物を漁るハイエナのような男たちの声も、今の彼女にとっては意味を持たないただの雑音だ。
指先をポケットに突っ込み、爪を人差し指の付け根に深く食い込ませる。一、二、三。痛みだけが、かろうじて自分の輪郭を繋ぎ止めていた。
そのときだった。
視界の隅に、真っ黒な傘がスッと差し込まれた。
ネオンの光を遮る、穏やかな影。
「……大丈夫?」
低くて、少しだけハスキーな声。
それは、獲物を探すスカウトの鋭さとは無縁の、どこか疲れ果てたような、けれどひどく透明な響きだった。
紬は足を止めた。白線から数センチ、足がはみ出していた。
けれど、奈落はやってこなかった。
ゆっくりと顔を上げると、そこには黒いパーカーを着た一人の男が立っていた。
男――凪は、困ったように眉を下げて、紬を見つめていた。その瞳は、夜の街には不釣り合いなほど穏やかで、まるで凪いだ海のように何も映していない。
「……死にそうな顔してるよ」
凪は静かにそう言って、傘を少し傾けた。
「……俺も、よく夜中に歩くんだ。眠れない時とか、考えたくない時とか」
その声には、同情も、正論も、救いの言葉もなかった。
ただ、そこにいるだけ。
「傘、入る? 濡れてると風邪ひくよ」
紬の喉の奥から、乾いた音が漏れた。
返すべき言葉が見つからない。けれど、彼の差し出す傘の下は、この街で唯一、空気がまともに吸える場所のように思えた。
――ああ、この人は何も求めてこない。
紬の胸の奥で、何かが少しだけ緩んだ。
紬は、ゆっくりと凪の傘の下に入った。
雨音が遠くなる。ネオンの光が、少しだけ柔らかくなる。
そして――肺に、空気が入った。
ほんの少しだけ、呼吸が楽になった気がした。
凪の横顔は、曇りガラス越しに見る景色のように、そこにあるのに触れられない距離感があった。
この人は、何を考えているんだろう。
――でも、今は。
今だけは、この傘の下にいたかった。
紬は視線を落としたまま、ただ立ち尽くしていた。
凪は何も聞かず、ただ黙って雨を見ていた。
雨は、まだ止む気配がなかった。




