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失恋専門医  作者: 伊阪証


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2/2

失恋の症状及び提言

院長は会議室の上座に座っていたが、すぐには資料を開かなかった。白い封筒だけを机の中央に置き、その上に右手を乗せている。部屋に集められた医師、看護師、心理士、薬剤師、事務長たちは、全員がその封筒を見ていた。中身は知っている。事前に配られた資料と同じものだ。失恋を専門的に診る病院を作る。そのための医学的知識、診療理念、患者対応の原則。そう説明されて読まされたが、読めば読むほど、誰も軽く頷けなくなっていた。


最初に口を開いたのは内科の三条だった。


「院長、確認してもいいですか」


院長は封筒から手を離さない。


「いい。今日はそのために集めた」


「この資料の内容は分かります。失恋が神経系にも、内分泌にも、免疫にも、循環器にも関係するという説明は読めました。ただ、正直に言えば、範囲が広すぎます。ここまで広げると、失恋専門医というより、総合診療と精神科と循環器と皮膚科と栄養指導を全部混ぜたようなものになります」


「その通りだ」


あっさり認められ、三条は言葉を詰まらせた。


院長はそこで初めて封筒を軽く叩いた。


「だから、この病院が要る」


外科の四条が眉を寄せる。


「ですが、それなら既存の病院で連携すればいいのでは。胸が痛ければ循環器、眠れなければ精神科、肌が荒れれば皮膚科、食欲がなければ内科。各科に回せば済む話にも見えます」


「済まない」


院長は首を横に振った。


「各科に回すだけなら、患者は自分の病名を細切れにされる。胸痛は胸痛、睡眠障害は睡眠障害、肌荒れは肌荒れ、食欲不振は食欲不振として扱われる。だが失恋で来る患者の問題は、別々に発生しているわけではない。根は同じだ。脳が社会的な喪失を、生存危機として処理している。身体はそれに引っ張られて崩れる。つまり、同じ火元から複数の煙が出ている」


皮膚科の七条が小さく息を吐いた。


「でも、患者本人はそう言いませんよね。肌が荒れた、眠れない、胸が苦しい、胃が痛い。その程度で来る」


「その程度、と言ったな」


院長の声は静かだった。責める調子ではない。だが、七条はすぐに口を閉じた。


「今の言葉が、この病院で最初に捨てるべきものだ」


誰も動かなかった。


院長は続ける。


「患者は自分が患者だと分かって来るとは限らない。むしろ逆だ。自分は大げさではないか、自分は弱いだけではないか、医者に行くほどではないのではないか、そんな顔で来る。若い患者ほどそうだ。学校で笑われる。職場でからかわれる。友人に相談しても、次に行けと言われる。家族には、そんなことで、と言われる。そうやって何度も軽く扱われてから、ようやく病院に来る」


看護師長が、静かに口を挟んだ。


「その時点で、もうかなり悪化している場合がある、ということですか」


「そうだ」


院長は頷いた。


「失恋の痛みは比喩ではない。資料にある通り、強い失恋を経験した人間が元恋人の写真を見ると、背側前帯状回や前部島が反応する。そこは物理的な痛みの不快感に関わる領域だ。さらに刺激が強ければ、痛みの感覚的側面を処理する領域まで動く。つまり患者が“胸が裂ける”“体が重い”“胃がひっくり返る”と言う時、それは詩ではない。身体が実際に痛みとして処理している」


四条が腕を組み直した。


「では、痛みとして診る」


「まだ浅い」


院長は即座に言った。


「ただ痛みとして診るだけなら、鎮痛薬の話で終わる。だが失恋の厄介さは、痛みが現在の刺激だけで起きるのではない点にある。思い出すことで再燃する。写真、匂い、曲、道、駅、服、名前、通知音、相手が好きだった食べ物。全部が再刺激になる」


心理士の水瀬が頷いた。


「反芻思考ですね」


「反芻と言うと軽く聞こえる。患者は考えたくて考えているわけではない。内側前頭前野が働き、相手の気持ちを推測し、過去の場面を再構成し、もしあの時違う言葉を言っていれば、もし別の場所に行っていれば、もし泣かなければ、もし怒らなければ、と繰り返す。そのたびに痛みの回路が接続される。本人の中では、昨日の出来事でも、一年前の出来事でもない。今、起き直している」


水瀬は黙り込んだ。


院長はその沈黙を見逃さなかった。


「水瀬、君ならその患者に何と言う」


「……まず、安全を確認します。自傷の危険、睡眠、食事、仕事や学校への影響。それから、思考を止めさせるのではなく、今起きている身体反応として整理します」


「なぜ止めさせない」


「止めろと言っても止まらないからです。止められないものを止めろと言えば、患者はさらに自分を責めます」


「そうだ」


院長はそこで初めて、わずかに椅子から身を乗り出した。


「“忘れろ”は治療ではない。“気にするな”は診断放棄だ。“次がある”は、痛みを診ない者の逃げだ」


空気が一段沈む。


薬剤師の九条が、資料を開きながら言った。


「報酬系の部分も気になりました。恋愛中の脳が特定の相手を報酬源として扱い、失恋でそれが遮断される。資料では薬物依存からの離脱に近い説明がされています。ただ、これをそのまま患者に伝えるのは危険ではありませんか。自分は依存症なのかと受け取るかもしれません」


「言い方を誤れば危険だ。だが、隠せばもっと危険だ」


「なぜですか」


「本人が自分の行動を道徳で裁くからだ」


院長は九条を見た。


「連絡してはいけないと分かっているのに、連絡したくなる。見てはいけないと分かっているのに、相手の投稿を見る。消したはずの写真を復元する。相手の生活圏に近づきたくなる。これを本人は“自分が情けないからだ”“未練がましいからだ”“気持ち悪い人間だからだ”と処理する。だが資料では、元パートナーに関わる刺激がトリガーになり、報酬系がさらに求める状態になると説明されている。ならば、最初に教えるべきことは一つだ」


九条が視線を上げた。


「意思の弱さではない」


「そうだ。意思の弱さではない。ただし、免罪符でもない」


院長の声が少しだけ硬くなる。


「行動は止める。連絡も制限する。相手を追わせない。ストーキングに移行する前に止める。だが、その時に患者を侮辱しない。“そんなことをするな”では足りない。“したくなる状態が起きている。だから一緒に遮断する”と言う。依存の構造を理解させ、恥ではなく管理対象に変える」


三条が小さく頷いた。


「なるほど。自責を減らしながら、行動制限は強くかける」


「その通りだ。ここを間違えると、優しさの顔をした放置になる」


会議室の奥にいた若い研修医が、おずおずと手を上げた。


「院長、進化心理学の部分は、どこまで臨床に使うんですか。社会的排除が生存脅威として処理される、という説明は理解できます。でも、患者にそれを言って納得しますか」


院長は研修医を見た。


「君は納得しないと思うか」


「人によると思います。失恋した人に、人類の歴史では集団からの排除が死に近かったから苦しいんです、と言っても、遠すぎる気がします」


「遠い説明を近くするのが医者の仕事だ」


院長は資料の端を整えた。


「こう言えばいい。“あなたが苦しいのは、あなたが大げさだからではありません。脳が、関係を失うことを危険として扱っているからです。昔の人間にとって、集団から離れることは本当に命に関わりました。その仕組みが、今も残っている。だから身体が警報を鳴らしている。警報が鳴っている人に、うるさいから黙れとは言いません。何が鳴らしているかを見ます”。これなら届く」


研修医はゆっくり頷いた。


「つまり、患者の苦しみを本人の人格から切り離す」


「そうだ」


院長はその言葉を拾った。


「人格から切り離す。そこが最初の治療だ。若者は特に、自分の価値が下がったと思い込む。振られた、選ばれなかった、捨てられた、負けた、劣っている、愛されない。その言葉が自己評価に食い込む。だが医者はそこに乗ってはいけない。失恋は評価ではない。神経系、内分泌、社会的警報、報酬系の離脱、記憶の再燃。それらが絡んだ状態だ。患者の価値を判定する材料ではない」


そこで院長は少しだけ間を置いた。


「私にこの資料を託した友人は、こう言った」


全員の視線が封筒に戻る。


「劣っているからと笑ってはならない。今まで通り過ぎた、自らと同じ道ではないか、と」


誰も声を出さなかった。


院長は続けた。


「若者の恋愛を笑う者は多い。若いから、経験が浅いから、視野が狭いから、そのうち忘れるから。そう言って軽く扱う。だが、若いから軽いのではない。若いから耐え方を知らない。若いから逃げ場を作れない。若いから自分の失敗を人生全体と混同する。若いから、ひとつの拒絶で世界が閉じる」


看護師長が、低く言った。


「だから、最初に受け止める場所が必要になる」


「そうだ」


院長は頷いた。


「次に内分泌だ。失恋はHPA軸を動かす。コルチゾールが上がる。短期なら適応だが、数週間、数ヶ月続けば、筋肉は緊張し、頭痛が出て、眠れず、血糖や代謝に影響し、脂肪がつきやすくなる。交感神経が優位になり、心拍が上がり、呼吸が浅くなり、ずっと何かに追われている状態になる」


三条が続ける。


「不安障害やパニックに近く見える」


「そう見える。だが、患者は“恋愛で傷ついただけなのに、なぜ動悸がするのか”と思っている。ここで我々が説明できなければ、患者はまた自分を責める。“こんなことで体調を崩す自分は弱い”となる」


九条が口を挟む。


「コルチゾールの話をすれば、患者は理解しやすいかもしれません」


「ただし、専門用語を並べるな。こう言えばいい。“身体が非常事態用のホルモンを出し続けています。本来は短く使うものを、長く使ってしまっている。だから眠れないし、肩が張るし、胃も荒れる。気合いの問題ではありません。非常ベルが鳴り続けている状態です”。これでいい」


四条が、今度は自分から言った。


「免疫も同じ構造ですね。ストレスホルモンが続けば免疫が落ちる。風邪を引きやすくなる、炎症が長引く、慢性炎症で気分も落ちる」


院長は視線だけで続きを促した。


四条は少し考え、言葉を足した。


「つまり、“失恋してから体調を崩した”は迷信ではない。実際に免疫と炎症の問題として見る」


「そうだ」


院長は、少しだけ満足そうに目を細めた。


「そして循環器だ」


会議室の空気が変わった。胸痛と心臓。そこだけは、誰にとっても冗談にできない領域だった。


院長はゆっくり言った。


「たこつぼ心筋症を、全員が知っているな」


三条が答える。


「強い精神的・身体的ストレスを契機に、左心室の収縮異常が起こる疾患です。急性冠症候群に似た胸痛や心電図変化を示すことがある」


「失恋が引き金になることもある」


「はい」


「ならば、失恋患者の胸痛を笑うな」


言葉が会議室に落ちた。


「“心が痛いんですね”で終わらせるな。胸痛、息切れ、冷汗、失神感があるなら心電図を取る。トロポニンを見る。急性心筋梗塞との鑑別を怠らない。女性に多いという知識だけで油断するな。男性の発症例では死亡率や合併症率が高いという報告もある。患者が若くても、恋愛が理由でも、本人が恥ずかしそうにしていても、心臓は見る」


研修医の顔色が変わった。


院長はそれを見て、逃がさないように続ける。


「いいか。ここで我々が笑ったら、患者は次の胸痛で来なくなる。次は死ぬかもしれない」


沈黙が落ちた。


その沈黙を破ったのは七条だった。


「皮膚と腸の話も、軽く扱えませんね」


院長は頷いた。


「言ってみろ」


「ストレスで腸内環境が崩れる。腸管バリアが乱れ、炎症が起きる。セロトニン合成にも関係する。皮膚ではコルチゾールがバリア機能を落とし、乾燥やニキビ、炎症、老化感につながる。患者は外見が悪くなったと感じ、さらに自信を失う」


「そこまで見ろ」


院長は短く言った。


「失恋した若者は、鏡を見る。顔色が悪い、肌が荒れた、目が腫れている、太った、痩せた、髪が抜ける気がする。そう感じるたびに、自分にはもう魅力がないと思う。これは美容の話ではない。自己評価の崩壊を止める医療だ。だから皮膚を診る。腸を診る。食事を見る。睡眠を見る。服装や眼鏡やコンタクトの相談まで軽く扱わない。本人が社会に戻る時、自分の姿を嫌悪しないようにする」


看護師長が静かに言った。


「患者がまた外に出るための支度ですね」


「そうだ。医療は生かすだけでは足りない。戻すんだ」


その言葉で、会議室の空気がまた一段変わった。


院長はもう、質問に答えるだけの声ではなくなっていた。


「精神医学の話をする」


水瀬が背筋を伸ばす。


「失恋は適応障害として現れることがある。明確なストレス源があり、日常生活に支障が出る。そこから抑うつに進む者もいる。悲嘆の過程もある。否認、怒り、取引、抑うつ、受容。だが、全員が綺麗に進むわけではない。戻る。止まる。怒りながら泣く。受け入れたと思った翌日に崩れる」


院長は水瀬を見た。


「だから、段階を押しつけるな」


「はい」


「遷延性悲嘆も見る。長く続く思慕、没頭、自己認識の混乱、社会的回避。患者が“自分の一部が死んだ”と言った時、それを大げさだと思うな。本人の自己同一性が関係の中に組み込まれていたなら、その喪失は本当に自分の一部を失ったように感じる」


水瀬は頷いた。


「そこで、治療は何を目標にしますか」


院長はすぐには答えなかった。


全員の視線が集まるのを待つ。


「元に戻すことではない」


ゆっくりと言った。


「相手を忘れさせることでもない。悲しみを消すことでもない。目標は、機能を戻すことだ。眠れる。食べられる。学校に行ける。仕事に行ける。危険な連絡を止められる。胸痛を放置しない。自分を傷つけない。肌や体調の悪化で自尊心をさらに落とさない。人と話せる。次の関係に飛びつかなくても、一人で立てる。そこまで戻す」


もう誰も反論しなかった。


院長はそれを確認してから、治療の話に入った。


「迷走神経刺激を使う。呼吸、冷水刺激、心拍変動を意識した介入。交感神経を落とす。患者が泣いている時、理屈は入らない。まず身体を落ち着かせる。息を吐かせる。水を飲ませる。顔を冷やす。手を握らせる必要があるなら握らせる。ただし依存先を医療者に移すな。身体が落ち着く手順を患者自身に持たせる」


看護師長が小さく頷く。


「救急外来でも使えますね」


「使える。次に記憶再構成だ。プロプラノロールのような薬理的介入は慎重に扱う。万能ではない。倫理的な議論もある。だが、記憶を消すのではなく、記憶に結びついた過剰な身体反応を弱めるという考え方は重要だ。患者に“忘れなさい”とは言わない。“思い出しても倒れないようにしましょう”と言う」


九条が言った。


「薬剤師としては、適応、禁忌、血圧、喘息、併用薬の確認を徹底します」


「当然だ。薬は信仰ではない。道具だ」


院長は続けた。


「アセトアミノフェンも同じだ。社会的痛みへの研究はある。だが、乱用させない。痛みを軽くする選択肢があると示すこと自体に意味がある。患者は“心の痛みだから耐えるしかない”と思っている。その思い込みを壊す」


三条が言った。


「栄養療法は、トリプトファンとセロトニンですね」


「そうだ。だが“バナナを食べれば治る”などと言うな。そんな安い話にした瞬間、全部がインチキになる。慢性炎症でトリプトファン代謝がずれ、セロトニン系に影響する可能性がある。だから食事、炭水化物、タンパク質、睡眠、運動をセットで整える。リズム運動も使う。歩かせる。日光を浴びさせる。だが根性論にするな。“歩けば気分が晴れる”ではない。“神経系を戻すために歩く”だ」


七条が続ける。


「皮膚は、保湿とバリア再構築。セラミド、ナイアシンアミド。炎症があれば治療。腸はプロバイオティクスや食物繊維も検討」


「外見を整えることを恥じるな」


院長ははっきり言った。


「失恋後の若者にとって、外見の崩れは社会復帰の障害になる。美容目的と切り捨てるな。肌を整える、眼鏡を合わせる、コンタクトを作る、服を選ぶ、姿勢を直す。それは“次の恋をしろ”という意味ではない。“自分の身体を自分のものとして取り戻せ”という意味だ」


会議室の全員が、もう資料を見ていなかった。


院長だけを見ていた。


院長はそれを待っていたかのように、封筒を持ち上げた。


「この資料を託した友人は、医者ではなかった」


誰かが息を呑んだ。


「だが、医者よりも先に見ていた。若者が見捨てられる構造を見ていた。笑われ、軽く扱われ、自己責任にされ、病名がないから医療に届かず、届いた時には身体も生活も崩れている。その構造を見ていた」


封筒の端が、院長の指で少しだけ曲がる。


「私はこれを読んで、最初に恥じた」


声が低くなった。


「我々は病気を診てきた。臓器を診てきた。数値を診てきた。だが、若者が壊れていく入口を、あまりにも多く見逃してきた」


三条が口を開こうとしたが、院長は止めなかった。むしろ促した。


「言え」


「……それは、医療だけの責任ではないと思います」


「その通りだ」


院長は即答した。


「医療だけの責任ではない。家族も、学校も、職場も、社会も関係する。だが、責任が分散した時、誰も拾わなくなる。だから病院が拾う」


四条が低く言った。


「そこまで引き受けるんですか」


「引き受ける」


「全員を救えるわけではありません」


「知っている」


「依存する患者も出ます」


「管理する」


「治療の境界を越えようとする者もいます」


「止める」


「医療者が疲弊します」


「だから仕組みにする」


四条はそれ以上言えなかった。


院長は立ち上がった。


ここで初めて、会話は会話の形を失い始めた。だが誰も、それに気づいた様子はなかった。さっきまで自分たちが疑問を出していたはずなのに、その疑問はもう院長の言葉の中に吸い込まれていた。


「いいか。若者を助けるとは、甘やかすことではない。泣いている頭を撫でることでもない。恋愛相談に乗ることでもない。壊れた機能を戻すことだ。痛みを痛みとして扱い、離脱を離脱として扱い、反芻を神経回路として扱い、胸痛を胸痛として扱い、肌荒れを自己評価の崩壊として扱い、食欲不振を代謝と腸内環境の問題として扱い、孤独を社会的警報として扱うことだ」


誰も資料を見ない。


院長の声だけが残る。


「失恋した若者は、しばしば自分を裁いてから来る。自分が悪い、自分が弱い、自分が重い、自分が選ばれなかった、自分には価値がない。そうやって自分を削った状態で来る。我々が最初にすることは、その裁判を止めることだ」


一歩、院長は前へ出た。


「君たちは裁判官ではない」


また一歩。


「慰問者でもない」


さらに一歩。


「傍観者でもない」


視線が、一人ずつ縫い止められていく。


「医療者だ」


その一言で、全員の姿勢が変わった。


「だから患者に言え。“あなたの苦しみには身体がある”。“あなたの痛みには経路がある”。“あなたの混乱には機序がある”。“あなたの行動には管理方法がある”。“あなたの生活は戻せる”。そう言え。言えないなら学べ。学ばないならここにいるな」


事務長が、かすれた声で言った。


「院長、それは全職員に求めるんですか。医師だけでなく、受付にも、会計にも、清掃にも」


院長は事務長を見た。


「当然だ」


「受付がそこまで背負えますか」


「受付が最初に殺すこともある」


事務長の顔が固まった。


「患者が震えながら来た時、受付が“失恋ですか”と笑えば、その患者は帰る。会計で冷たく扱えば、二度と来ない。廊下で職員が噂すれば、病院そのものが凶器になる。だから全員だ。医師だけでは足りない。看護師だけでも足りない。心理士だけでも足りない。この建物にいる全員が、患者を軽く扱わないと決めなければ、この病院は成立しない」


沈黙。


院長は、そこで声を落とした。


「友人は言った。今まで助けてもらったのに、次を見捨てるのか、と」


封筒を胸の前に持つ。


「我々も若かった。失敗した。愚かだった。恋愛で判断を誤った。誰かに執着した。眠れなかった夜がある。食えなかった朝がある。返信ひとつで心拍が跳ねた日がある。たった一人に選ばれないだけで、自分の人生が空になったように感じた時がある。あるはずだ」


誰も否定しなかった。


「ならば、笑うな」


声は静かだった。


「通り過ぎた道にいる者を笑うな。自分が偶然そこから出られたからといって、まだそこにいる者を劣っていると見るな。歴史は世代を重ねて積み上げ、次に渡すものだ。医療も同じだ。上の世代が受け取った知識を、下の世代に渡す。苦痛を減らし、危険を減らし、死なせない形にして渡す。それをしない者は、専門職ではない」


会議室にいる全員が、もう院長に反論するためではなく、次の言葉を待つために黙っていた。


院長はそれを確認した。


「今から聞く」


誰も動かない。


「失恋を軽く扱う者は、この病院に要らない」


沈黙。


「若者の苦痛を、若さのせいにする者は要らない」


沈黙。


「患者の痛みを、恋愛相談に落とす者は要らない」


沈黙。


「胸痛を見逃す者は要らない。睡眠障害を根性で片付ける者は要らない。肌荒れを美容の悩みと笑う者は要らない。食欲不振を気分の問題と流す者は要らない。依存行動を人格の汚さと決めつける者は要らない。泣いている若者を、面倒な患者だと思う者は要らない」


院長はそこで、全員を見渡した。


「残る者だけが誓え」


三条が最初に立った。


「誓います」


院長は頷かない。


「何を」


三条は一瞬止まったが、すぐに言い直した。


「失恋を、全身に波及する医療上の問題として診ます。胸痛、睡眠、食事、代謝、免疫、精神症状を切り離さず、患者の人格の問題にしません」


四条が立った。


「誓います。痛みを比喩として片付けません。胸痛と呼吸困難を軽視せず、危険な徴候を見逃しません」


七条が立つ。


「誓います。皮膚や外見の変化を、くだらない悩みとして扱いません。自己評価を取り戻すための医療として診ます」


九条が立つ。


「誓います。薬を魔法のように扱わず、しかし選択肢として正しく使います。依存や離脱を恥ではなく管理対象として説明します」


水瀬が立つ。


「誓います。忘れろとは言いません。反芻と思い出しの痛みを、患者の弱さにしません。安全を確認し、生活機能を戻します」


看護師長が立った。


「誓います。最初に触れる者として、患者を帰らせる言葉を使いません。泣いて来た若者を、迷惑な人間として扱いません」


事務長が遅れて立つ。


「誓います。受付、会計、清掃、警備まで含めて、この方針を徹底します。この病院の中で、患者が笑われる場所を作りません」


院長は最後まで頷かなかった。


代わりに、もう一度聞いた。


「若者を助けるとは何だ」


三条が答える。


「機能を戻すことです」


「痛みとは何だ」


四条が答える。


「比喩ではなく、診るべき反応です」


「失恋とは何だ」


水瀬が答える。


「脳と身体と社会的自己にまたがる喪失反応です」


「患者とは何だ」


看護師長が答える。


「弱い人間ではなく、回復の途中にいる人です」


「我々は何だ」


一瞬だけ、誰も答えなかった。


院長は待った。


待つことで、逃げ道を消した。


やがて全員が、ほとんど同時に言った。


「医療者です」


院長はようやく頷いた。


「ならば、今日からそのように振る舞え」


封筒を机に戻す。


「この病院は、失恋を笑わない。若者を見捨てない。痛みを分解し、身体を戻し、生活を戻し、社会へ戻す。そのために科を置く。そのために人を雇う。そのために金を使う。そのために研究する。そのために叱る。そのために守る」


声が、完全に演説になっていた。


だが、もう誰もそれを演説として聞いていなかった。


自分たちがさっき口にした誓いの続きとして聞いていた。


「君たちは今日、自分の口で言った。患者を軽く扱わないと。若者を見捨てないと。機能を戻すと。ならば逃げるな。明日、受付に来る一人目から始めろ。胸を押さえているなら心臓を見る。眠れていないなら睡眠を見る。食べていないなら栄養を見る。肌が荒れているなら皮膚を見る。泣いているなら安全を見る。連絡したがっているなら行動を止める。死にたいと言うなら一人にするな」


院長は、最後だけ声を落とした。


「そして、どの患者にも最初に伝えろ」


全員が息を止める。


「あなたの苦しみは、笑われるものではありません」


沈黙。


「あなたの痛みは、診る価値があります」


沈黙。


「あなたは、ここから戻れます」


誰も座らなかった。


院長はそのまま、封筒を胸ポケットに入れた。


「以上だ」


会議は終わったはずだった。


だが、誰もすぐには動かなかった。

もう命令は終わっている。説明も終わっている。誓いも終わっている。

それでも全員が立ったままだったのは、座るという動作ひとつで、今口にしたものが軽くなる気がしたからだった。

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