プロローグ
……いつからだ?
俺はこんな泥沼に囚われていたのは。
そんなことを考えた瞬間、敵の一撃が俺の身体をダンジョンの壁へと叩きつけた。
「……はぁ……」
重たい息が漏れる。
いつも、こうだった。
少なくとも、自分を覚えている限り——死は常にすぐ傍に潜み、わずかな隙を狙って俺を喰らおうとしていた。
意識がまだ朦朧としたまま、顔面から壁に激突する。床に崩れ落ち、鼻から垂れる血だけが視界に映った。
壁の破片がすぐ傍に崩れ落ちたが、幸運にも身体には当たらなかった。だが、衝撃と激突による痛みだけでも十分すぎるほどだった。
顔を上げると、奴が立っていた。鼻を鳴らしながら、こちらを睨みつけている。
その姿を見た瞬間、胸の奥が鋭く抉られた。
……あの熊を思い出した。何年も前の、あの時の——
頬に残る古傷が、焼けるように疼いた。
ふらつきながらも、なんとか立ち上がる。
倒れていれば、そのまま死ぬだけだ。剣をしっかりと握り、再び構えを取る。
あとは、次の一撃が来るのを待つだけ。
奴が再び鼻を鳴らす。
その輪郭が、揺らいだ。
そして——突進してきた。
一瞬で、距離が消えた。
奴の足音が地面を揺らす。
割れた唇の隙間から覗く牙が、濁った光を放っていた。
凝視するその瞳は、凝縮された殺意を滲ませる血のように赤黒い。
鼻孔から吐き出される蒸気が空気を歪め、周囲に圧をかけていた。
そして、その首には紫色の石を埋め込んだアミュレットが吊るされていた。
まるで生きているかのように、脈打っている。
——こいつが、このダンジョンのボス。
Bランクの魔物、オーク・デモニアックだ。
異形の肉体がぐっと距離を詰める。
奴の拳が振り上げられ、俺を押し潰そうとしていた、その時——
鈍い衝撃音が響いた。
オーク・デモニアックの巨体が吹き飛び、深く刻まれた足跡が地面に引きずられていく。
その胸には大きな裂傷が走り、血が勢いよく噴き出していた。
……間一髪、助かった。
「ナイスだ、クロウ!」
もし俺が一人だったら、とっくに終わっていただろう。
だが今の俺には、共に戦う存在がいる。
クロウ——
「ニャア!」
満足げに鳴いたその姿は、小さな黒猫。
背には蝙蝠のような翼が生えている。
俺の使い魔にして、唯一の相棒だ。
張り詰めた空気が、一瞬だけ和らいだ。
だが、オーク・デモニアックが再び咆哮を上げる。
クロウの一撃は効いたが、仕留めきれてはいなかった。
「気を抜くな、クロウ。こいつは手強いぞ」
クロウが応えるように、鋭く鳴いた。
俺たちは再び陣形を取り、敵に相対する。
オーク・デモニアックは傷口を押さえながら、再び低く唸り声を上げた。
そのまま玉座の方へと向かう。
そして、そこに立てかけられていた戦斧を掴んだ——巨大な骨で作られた斧。刃には無数のルーンが刻まれている。
奴の手がそれに触れた瞬間、空気が変わった。
殺気が一瞬で膨れ上がる。
視線が交わる。
俺は息を吐き出し、肺の奥から空気をすべて追い出す。
そして、新たに深く吸い込んだ。
乾いた空気。
熱気がこもる空間。
埃の臭いが鼻腔を焼く。
……それでも、今の俺には、それが活力となる。
オーク・デモニアックが激しく鼻を鳴らし、空気がまた歪む。
俺たちは互いに構えを取り、沈黙の中で殺気を高める。
——そして、同時に地面を蹴った。
奴が戦斧を頭上に掲げ、縦に振り下ろしてくる。
俺の頭を真っ二つに割るつもりだ。
身をひねって回避し、すぐさま前へ出る。
剣を振りかざし、奴の左肩に突き立てた。だが、皮膚が分厚くて深くは通らない。
奴の拳が飛んでくる。
それをかわすように跳び、顔面に蹴りを入れる。
その反動で身体を回転させ、距離を取ろうとした。
だが、着地する前に——
奴の足が俺を捉えた。
咄嗟に腕でガードしたが、その衝撃は骨に響く。
身体ごと吹き飛ばされる。
……くそっ、また追い詰められた。
オーク・デモニアックが迫る。
——だが、奴は気づいていない。
すでにクロウが背後に回り込んでいることを。
クロウの口元から、焔が解き放たれる。
オーク・デモニアックの背を直撃し、その皮膚が焼け崩れていく。
獣の叫びが部屋中に響いた。
轟音のような断末魔。
石造りの壁が震え、砂塵が舞い上がる。
奴は、一瞬だけだが完全に静止した。
——今しかない。
剣を握り直し、俺は駆け出した。
だがその時だった——
炎の中から、紫色の光が滲み出た。
部屋の壁、玉座に刻まれたルーンが一斉に光を放ち始める。
鋭い音が頭の奥を突き抜けた。
オーク・デモニアックが、炎の渦の中からゆっくりと歩み出る。
その瞳は紫に輝き、手にした戦斧もまた同じ色で脈動している。
放たれる圧がさらに重くなった。
だが、奴は動かない。
まるで、隙だらけのように見えた。
……けれど、動けなかったのは、俺のほうだった。
全身が強張り、一歩も動けない。
完全に、魔力に縛られている。
そのまま、奴が走り出す。
全身を炎に包んだまま、止まることなく一直線にこちらへと突っ込んできた。
血が滴り、肉が焼け落ち、皮膚が裂ける音さえ聞こえる。
だが奴の歩みは止まらない。
目に映るのは、狂気と殺意のみ。
……動け、動け、動け!
クロウはすでに次の攻撃に備えている。
もし、今俺が立ち止まれば——
死ぬのは、あいつだ。
思い出す。
クロウと初めて出会った日のことを。
あの時も感じた、この感覚。
——恐怖。
だが、あの時と同じように、俺は決意する。
地を蹴り、奴の股下へと滑り込んだ。
両手を広げ、極細の糸を展開する。
ほとんど視認できないその糸は、鋼よりも強靭な暗殺用の道具。
旋回しながら奴の全身に絡め取り、縛り上げる。
単純だが、極めて効果的な戦術——の、はずだった。
だが——
その糸が、まるで紙のように断ち切られた。
「なっ……!」
奴の怪力が、それを一瞬で引き裂いたのだ。
それでも、わずかに動きが鈍った。
十分だった。
クロウが再び舞い上がり、鋭く喉元を裂いた。
首の半分以上が抉れ、血が噴き上がる。
それでも、奴は倒れない。
クロウを狙って戦斧を振り上げる——
その腕に、俺は再び糸を巻きつけた。
クロウは身を翻して後方へ逃れた。
だが今度は、奴が糸を伝って俺を引き寄せる。
その巨腕が俺の身体を掴み、宙へと投げ飛ばした。
宙を舞いながら、俺は奴の肩に突き刺した剣を抜き取る。
まだ糸は切れていない。
奴の咆哮が空間を裂き、瞳がさらに強く光る。
戦斧が旋回し、俺ごと薙ぎ払おうとしてくる。
だが——
糸を即座に切り離し、地面へと走る。
横殴りの斧がかすめた。
髪が数本、宙に舞った。
……間に合った。
その隙を突いて、剣を胸元へ深く突き立てる。
クロウの攻撃でできた裂け目から、刀身が容易に沈み込んだ。
そのまま跳躍。
宙を舞い、糸で斧を掴み、引き寄せる。
力任せに引っ張った。
斧が落下し、俺の身体とともに振り下ろされる。
斬撃が、奴の頭部を真っ二つに裂いた。
血が噴水のように部屋中に広がる。
壁も玉座も赤く染まり、俺とクロウの身体にも降りかかった。
……俺たちの勝利だった。
「……はぁ、はぁ……勝ったな、クロウ」
全身の力が抜け、思わずその場に膝をつく。
クロウが俺の頬にすり寄る。
血に濡れた身体で、それでも嬉しそうに甘えてくる。
もう大丈夫だ。
あとは、ギルドに戻って報酬を受け取るだけ。
俺が剣を引き抜こうとしたその時、クロウがふわりと舞い上がった。
玉座の近くに降り立ち、何かを見つめている。
……部屋の中はさっきよりも暗くなっていた。
血が飛び散り、いくつかの松明の火が消えている。
それでも、ルーンは淡く紫色に輝いていた。
その光が、クロウの瞳に反射している。
「……クロウ?」
声をかけると、クロウはすぐにこちらへと戻ってきた。
俺はオーク・デモニアックの牙を四本、そして首から下げていたアミュレットを回収する。
ボス級モンスターの討伐証明として、それらを持ち帰る必要がある。
素材の残りは売却用だ。
残念ながら、戦斧は死と同時に灰になってしまった。
そのまま、俺たちは街へ戻った。
ダンジョンの出入口は、苔に覆われた古代の石造り。
その入り口には、魔除けのルーンが刻まれていた。
滑りやすい石畳の道が街まで続いている。距離はわずか五分ほどだ。
ギルドに立ち寄り、討伐報告を済ませ、金貨二十枚を受け取る。
その後、宿へ向かった。
熱い湯に浸かり、クロウと一緒に焼いた肉を平らげると、ようやくベッドに身体を預けた。
全身が軋むように痛むが、ここ数時間で初めて……
ようやく、気が緩んだ。
「……今日は危なかったな、クロウ」
クロウが「ニャア」と短く鳴き、俺の胸の上に丸くなる。
柔らかな毛並みに指を滑らせ、俺は大きなあくびをひとつ。
……ふと視線を机に移す。
そこに置いた袋の中には、オーク・デモニアックの首飾りが入っている。
あの斧とは違い、これは消えていなかった。
袋から取り出し、手に取ってみる。
ただの粗末な紐に、紫色の多面体の石が吊るされているだけの、簡素な首飾り。
「……妙な石だな。いくらぐらいで売れるんだろ——」
その瞬間だった。
石が、激しく輝いた。
「っ……!」
視界が白に包まれ、一瞬、目が焼けるような感覚に襲われる。
次に目を開けたとき、クロウがじっとこちらを見つめていた。
その瞳は——完全に、紫に染まっていた。
直後、声が頭の奥に直接響いた。
——「オズ!」
その声は、氷のように冷たく、背骨を貫いた。
何が起きたのか理解する前に——
俺の意識は、闇へと沈んでいった。
……そして、それ以降の記憶は、曖昧になっていく。
だが、ひとつだけはっきりと覚えていることがある。
——俺の名は、オズ。
そして、あの日こそが——
本当の旅の、始まりだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
これは、自分が初めて書いて投稿した作品です。
もし誤字や表現のミスなどを見つけたら、遠慮なく教えてください。
あらためて、ありがとうございます。