月の砂とお姫様【4】
ケーシィの部屋を出たアリネは、顔を洗いに更衣室に向かいました。決して寝ぼけている訳ではありません、服を仕舞う棚達の隣に簡易的な洗面所が設けられているので、そこに向かっておりました。
(昨日は、変に疲れましたわね…)
2~3回くらい顔に水を当てて、鏡に向かって心に呟きました。
「失礼しま~す。お着替えを持ってきました」と欠伸をかいて、メルダが入って来ました。
「ありがとう、メルダ。…昨日は、眠れませんでしたの?」
「こっ…これは!申し訳ありません」
「怒っている訳じゃありませんのよ。欠伸をするくらいですもの、それ相応の理由がお有りでしょう?」
「はい。お恥ずかしい話、恋愛小説に嵌っておりまして…それで夜更かしをしてしまいました。」
「その小説、私にも教えてくださいまし。後、夜更かしも程々に、よろしくて?」
ふぁーいと大きい欠伸をかきながら、その場を後にしました。
煌びやかな青のドレスに着替えた後、アリネは食堂の食卓に向かうのでした。そこには既に、父親が満面の笑みを浮かべ座っておりました。アリネが席に着くや否や
「アリネ、お見合いに興味はあるか?」と訊いてきました。
勿論、答えはNOと言いたいところでしたが。肌身離さず身につけているネックレスと変な好奇心の所為で、了承してしまいました。この時、後々後悔することになるとは、彼女はまだ知りません。
時計の針が正午頃を刺していたくらいに、此処ノーブクライワン国の北に位置するスマル帝国の王子様、レイマ・クルスタインが玄関で待っていたアリネの顔を見て一言。
「美しい…」
どうやら、お姫様のことを好きになってしまったようです。
確かに彼の容姿は端麗です。切れ長の目に寝癖ひとつ無い銀髪、ただ一つ気がかりなのは鎧を身にまとっていることでした。そんな彼は、アリネの暖かい手を冷たい手で覆い
「アリネ・シルフワール、いつでも口に出したい名前だ。今にも吸い込まれそうな紫の瞳、三日月のようにしなやかで輝かしい髪。…貴女に会うために産まれてきたといっても過言では無い。」と彼女の良い所を述べていました。
それに内心引いていたお姫様の顔は、優しい目はしていたものの口元を緩めようとはしませんでした。
「此処で話をするのもなんですから。取り敢えず、お食事にしませんこと?」
アリネは、レイマの褒め言葉に飽き飽きしてそんな提案をする。その時彼女は、疑問を抱かずにはいられませんでした。
自分自身の言葉でしっかり話せていることに。
レイマは、食卓に着くまでずっとアリネにアプローチしていました。まさに、滑稽なものです。帝国の一王子様が、お姫様に媚びへつらう姿というのは。アリネは、耳を塞ぎたい気持ちをグッと抑え込み、魂の抜けたような顔をして彼の話を聞いておりました。
(早く終わりませんの?こんなの、苦痛でしかないわ…)
そんな感情も知らないで、王子は減らず口を叩いてばかりいました。それに我慢の限界を感じ、とうとうお姫様は怒ってしまいます。
「いい加減にしやがれですの、このボンクラが!」
彼女の顔は、まるで夜叉のようでした。
アリネは、机の上にハイヒールを履いた片足をドンッと乗せました。案の定、レイマは目に涙を浮かべ怯えていました。
「貴方のお言葉は嬉しいのですが、さっきからウザイですわ。それと、私に挨拶はしましたの?」
その言葉に王子は、口元を手で抑え目を泳がせていました。
「今、気付きましたの?私を褒めるのに夢中で、『ご機嫌よう』すら忘れておりましたのね…帝国の王子が聞いて呆れますわ!」
レイマは、悪魔だ〜と裏返った声で叫びながら、転げるように帰って行きました。
「アリネ!」と父親が勢いよく扉を開け、そう叫びました。
「申し訳ありませんわ、お父様。これには…」
「凄いな!」
頬を緩ませ意外な言葉を口にした父親に、アリネは一瞬、呆気にとられました。
「いやなに、相手の無礼を指摘できる程、お前が成長したんだ。それを褒めない親が何処にいる?あんな馬鹿野郎、フッて大正解だぞ」
そう言うと彼は、お姫様の肩をポンポンと叩きました。アリネは、安堵の息を漏らします。ふとネックレスを見てみると、今まで輝いていた砂は生気を失ったように固まっていました。彼女はそのネックレスを、大事そうに握り締めました。
ネックレスの効力が切れてもアリネは横暴な態度をとることも無く、礼儀を一から勉強し上品に振舞っておりました。そう、お姫様は変わったのです。あの時、あの商人に出会っていなければ、アリネの変わる機会は絶対と言っていいほど無かったでしょう。
「グヒド、ちょっといいかしら?」
「何でしょうか」
「ミファエル・クィンリッヒを此処に呼んでくださいまし。まだ城下町に居ると思いますから、探してきてくれないかしら?」
「了解しました。至急、お呼びいたします」
そう言うが早いか、グヒドはその場を後にしました。
(早く、ミファエルさんにお礼を言いたいですわ。それとーー)
穏やかな顔が板についたお姫様は、ミファエルのことを待ちながら紅茶を啜るのでした。