赤蜻蛉
水面にまで枝垂れた柳を、伊吹は池の汀に立ち尽くして眺めていた。風もないのにゆらゆらと揺れる枝葉に、真紅の楓が水中で寄り添う。
紅葉がひらりと舞い散る度に、池の面は静かに翳り黄昏時となった。対岸から迫る薄闇に、伊吹は思い出したように瞬きをする。
「……連、どうして君は僕の側からいなくなったんだ」
伊吹は項垂れ、唇を噛んだ。
連とは身分は違えど、幼少の頃からの親友だった。よくこの池に二人で遊びに来ては追いかけっこや水切りをしたり、何をするでもなく草叢に寝転んで時間を費やした。
連が寝入ると、どこからともなく赤蜻蛉がやって来て、彼の艶やかな垂髪を休所とするのだった。伊吹が羽根を摘まんで捕らえようとすると、赤蜻蛉は忽ち逃げてしまう。そして、紅く色づき始めた楓の中へ一旦身を翻したかと思うと、再び姿を現して親友の肩に止まる。よほど彼がお気に入りらしい。連は何も知らずに瞼を閉じている。
伊吹は彼が寝ているのをいいことに、そっと背中に寄り添い、水干の袖ごと手を握り締めた。沈香の薫りがする。温かい体温が次第に熱さに変わり、それが自分自身のものだと知ったとき、触れている指先が微かに動いた。異変を察した連が目を覚ましたのだ。彼は長い睫毛をしばたたかせ、伊吹に微笑む。
「……どうしたんだ」
「何でもないよ」
「抱きついたりして、何でもないことあるか」
「僕はただ、蜻蛉を捕まえようとして、そう、君に蜻蛉を見せたかったんだ」
「蜻蛉なんて、珍しくないじゃないか。可笑しなやつだな、伊吹は」
連は寝そべりながら、腹を抱えて笑う。伊吹はばつが悪くなって、半身を起こして仏頂面をしてみせた。抗議のつもりだったが、連はさらに丸くなって、しまいには涙を浮かべる。
「ああ、もういいよ。本当に蜻蛉捕まえてくるから」
伊吹は親友を置いて、池の汀を駆けだす。飛びかっていた赤蜻蛉の群れが伊吹を取り巻くが、一匹たりとも少年の手に収まろうとしない。そのうちに日が暮れてゆき、蜻蛉を追うのを止めて二人で競い合うように家路へ走った。
永遠ともとれる、ささやかな一時。時間を忘れて親友と遊んでいた頃。そんな日々が呆気なく途絶え、伊吹は一足早い冬を纏ったまま、池の縁に集まった紅葉を寂しげに見つめる。
ふいに一匹の赤蜻蛉が水上を過る。すいっと上昇したそれは、枯れかかった楓の枝に着地した。ほとんど影となっても、不思議と居場所がわかる。
その赤蜻蛉がいる先に、どうしたことか柳の細長い葉が結ばれていた。伊吹は頸を傾げ、背伸びをして慎重に葉をほどく。表面を僅かばかりの夕陽に晒すと、ある絵が浮かび上がった。
少年と思われる人物が、二つの羽根を持つ生き物を追いかけているような絵。みづらをなびかせているのはきっと伊吹で、生き物のほうは恐らく蜻蛉だろう。連は手先が器用であったため、眠っている振りをして、尖った石か手折った枝でこの絵を描いたのだ。
「……連、君ってやつは、僕にこんなものを遺して」
暗がりから、赤蜻蛉が旋回してくる。伊吹はその赤蜻蛉に人差し指を掲げ、親友の手紙を胸に抱いて目を瞑った。