34. 紫色の小瓶
「ふぅ……」
ダイニングの椅子に座ると、アンナは深く息を吐いた。昨日からずっと気を張っていたが、ルーフェスの容態が安定したのを見届けたことで、ようやく完全に緊張の糸が切れたのだった。
すると一気に眠気が押し寄せてきて、石のように重くなった瞼が、目を閉じることを抗えなくしたので、アンナはそのままゆっくりと椅子の背にもたれかかるようにして、深い眠りの海に落ちていった。
どの位経っただろうか。
玄関のドアが開く音と
「ただいま」
という声が、眠りの海を彷徨っていたアンナを現実へと引き戻した。
どうやら、弟が帰ってきたようだった。
「エヴァン、お帰りなさい。お使い有難うね。」
アンナは重い瞼を擦りながらも慌てて立ち上がり、一仕事終えて帰ってきた弟を労った。
「いいえ、どういたしまして。」
当たり前の働きをしたのだから特段労いは要らないという思いから、エヴァンは素っ気なく返事をすると、抱えていた荷物をダイニングテーブルの上に広げて見せたのだった。
「これは……?」
彼がテーブルの上に広げた荷物を、アンナも覗き込む。
「ジェフって人に渡された。着替えと……多分コレは傷薬?」
エヴァンの指差す先には、紫色の小瓶が転がっていたが、その特徴的な小瓶の形状を見て、アンナは目を丸くして驚いたのだった。
「えっ、待って?!これって最上級品の傷薬よ!!」
それは、万能薬とも言われている、冒険者であってもそうでなくても、誰しもが喉から手が出るほど欲しい一品であった。
「その小瓶、そんなに凄いものなの?」
価値を知らないエヴァンには、普通の傷薬との違いがいまいち分からない為、驚愕している姉を訝しがった。
「そうね……。正規値段でも、この小瓶を買うのにこの借家の家賃の二、三ヶ月分位払わないと買えないような代物よ。」
アンナは、まだ男爵家で両親と暮らしていた頃に父が恩賜の品として国王陛下から賜ったその薬を使って、魔物討伐で重傷を負った若者を後遺症もなく回復させた事を覚えていたのだ。
「うわっ、そんな高価な物を何も知らずに運んでたのか。良かった、落として割らなくて。」
「ふふっ、そうね。丁寧に運んでくれて有難う。」
アンナのその説明で、自分が運んでいたのは高額な品だと分かって慌てふためいてる弟を見て、アンナは笑みを浮かべながら、その頭を優しく撫でた。
「それで、あの人は?寝てるの?」
あの人とは、勿論二階のアンナの部屋で寝ているルーフェスの事である。
エヴァンは自分の頭を撫でるアンナの手から気恥ずかしそうに逃れると、自分に伝達役を頼んだ張本人はどうしているのかと尋ねたのだった。
「えぇ。さっき眠ったところよ。」
「そっか。ジェフって人からあの人宛に伝言も預かってるんだけど……」
寝ている怪我人を起こすのは流石に申し訳なく思い、エヴァンはどうするべきかと困惑した。
「もう少し寝かせておいてあげたいんだけど、その伝言は、早く伝えた方が良い物なの?」
アンナは、エヴァンが預かっている伝言の内容を知らない為、彼を起こしてまで伝えるべき物なのか、判断を弟に託すしかなかった。
「うーん……。……どっちかって言うと……そう……かな……?でも、直ぐにって程でもないか……な?
正直……俺が聞いても何のことか分からない事もあって……」
煮え切らない様子の弟を見て、その伝言は本人が聞かないと正しく意味を理解できない内容なのだなと察した。
(仕方ない、本人に聞いてもらうしかないか……)
そう思ってアンナは時計を見た。
先程、ルーフェスが眠ったのを確認してからは一時間が経過していた。彼の具合を考えると、せめて二時間は連続して寝かせてあげたかった。
「もう少しだけ寝かせてあげて。そうね、後一度時間したら声をかけに行きましょう。」
その言葉を聞くと、エヴァンは分かったと頷き、自室へと引き上げて行ったのだった。
一人残されたアンナは、テーブルの上に広げられた荷物を整理した。そしてその中の一つである紫の小瓶を手に取るとそっと胸の前で握りしめた。
(この薬ならば、きっとルーフェスの傷も早くよくなるわ……)
何故こんな高価なものを一介の庭師が持っていたのかという疑問は消えないが、それでもこの薬のお陰で、ルーフェスの傷の治療に光明を見ることができた。
アンナの心を占めていた不安は小さくなってゆき、彼女は安堵から自然と穏やかな表情になったのだった。




