2. 懇願と困惑
ギルドへの顔出しが普段より大分遅い時刻になってしまったので、まだ仕事の依頼が残っているのか不安に思いながらも、アンナは祈るような気持ちで冒険者ギルドの扉に手をかけた。
全力で走ってきた為に呼吸は乱れて整わないままだったが、そんな事はさておいて、扉を押し開けて入り口右側にある仕事の依頼が張り出される掲示板を見つめたのだった。
一枚。
掲示板には一枚の依頼書が貼り付けられていた。
(良かった。まだ依頼書残ってた!!)
たとえ一件でも仕事が残っていた事に安堵しアンナは胸を撫で下ろした。
しかし、それも束の間。
無慈悲にもアンナの目の前で頭からローブを被った一人の青年が、掲示板に残っていた最後の一枚の依頼書を取り上げてしまったのだった。
「あっ……待ってっ!!!」
アンナは、思わず叫んでしまった。
こんなに大きな声が出せるものなのかと、声を上げたアンナ自身も驚いていたが、それは他の人もどうやら同じで、ギルドの受付のお姉さんや、最後の一件の依頼書を手にした青年も大きな声を上げたアンナに注目し、驚いて動きを止めたのだった。
注目された事で一瞬我にかえり恥ずかしさも覚えたが、今のアンナには羞恥心よりも弟の本日の食費を稼ぐ事の方が重要で、そんな周囲の視線を物ともせずに見ず知らずのその青年に駆け寄ると、両手を握って懇願したのだった。
「お願いです、この依頼書を譲って貰えませんか?!」
依頼書を持っている青年の手を、アンナは両手でがっしりと掴み、上目遣いで訴えかけた。
(まさか、エミリアの教えを実践する時が来るなんてね……)
仕事がどうしても欲しいアンナは、「世の中の大抵の男性はこういったお願いのされ方をすると大抵聞き入れてくれるものだ」と、借家の隣に住んでいるお姉さんが以前教えてくれた事を咄嗟に思い出し、実践したのだった。
二歳年上のエミリアは、借家が隣同士でアンナ達姉弟が王都にやって来た頃から何かと面倒を見てくれているアンナにとって姉のような存在で、弟のエヴァンを育て上げることと日々の生活に必死で克己的なアンナとは対照的に、人気劇団の主演女優を務めるエミリアは、浮名も多くとても華やかな人物であった。
そんな彼女が以前に、一人で弟の面倒を全部見ようとするアンナを見兼ねて、あるアドバイスを送っていたのだ。
それは今から大体一年位前の出来事で、当時アンナは腕に大きな怪我を負っており一時的ではあるがギルドの仕事が出来なくなっていたのだが、それでも周囲に頼る素振りも見せずに、全部一人で抱えようとしていた時のことだった。
◆
「いいこと、アンナ。貴女は人より可愛いらしい容姿をしているのだから、もっとその外見を有効活用するべきだわ。全部一人で何とかしようなんて限界があるのよ。あまり一人で無理しないで欲しいわ。例えばそうね、こうやって手を握って、目に涙を浮かべて上目遣いにお願いするのよ。そうしたら大抵の男性は手を貸してくれるわよ。」
向かいに座るエミリアは、アンナの手を取って大真面目にそう話した。頑張り過ぎているアンナを見ていられなくて、彼女なりに本気で心配しているのだった。
けれども、そんなエミリアの助言にアンナは少し困った様な顔をしてみせた。彼女の心遣いは伝わるのだが、それを実践ともなると、アンナには些かハードルが高かったのだ。
「そうは言ってもエミリア、私にはそれは難しいわ。だってそんな事したら、誤解を与えないかしら……。もし、男性に好意を向けられても……私困るわ……」
エミリアの言葉にあった通り、アンナの容姿は人より優れている方だった。くりっとした大きな瞳の持ち主で、黙って立っていれば庇護欲がそそられる可愛らしい女性なのだ。
そのせいで、過去に何度か男性から好意を向けられる事もあったが、それは酷く煩わしいものでその度に、アンナはうんざりした気持ちになったものだった。
「あら、ニッコリと微笑みかけて感謝の気持ちを伝えるのよ。それだけで十分よ。下心に律儀に答えてやる必要は無いわ。」
そう言って、エミリアは最上級の笑顔を作って見せた。彼女は女優という職業柄、どんな時でも瞬時に笑って見せることが出来るのだ。
そんな笑顔のエミリアとは対照的に、アンナは曇った表情で、伏し目がちにため息を吐いた。
「私は、エミリアのようには振る舞えないわ……」
「まぁ、アンナのその生真面目な性格じゃそうかもね。けど知識として覚えておくだけでも良いと思うわ。いつ、どこで必要な場面に出くわすかわからないからね。」
そう言って、エミリアは今度は可愛らしくウィンクをして見せたのだった。
彼女のような魅せ方は自分にはきっと出来ないとアンナは思ったが、自分の事を心配して色々と助言をくれているのだというエミリアの思いは十分に伝わったので、この時の彼女の教えは、アンナの中でずっと残っていたのであった。
◇
(エミリアが言うんだから、こうやってお願いすれば、きっと依頼を譲ってくれる筈……)
あの時のエミリアからのアドバイスを思い出し、アンナは最大限に可愛らしく見える様に青年を上目遣いで見上げた。
剣士としての自分に誇りを持っているので、この様な女性であることを有効利用する様なやり方は本来好きではないのだが、金銭的に余裕のない今日は、なりふり構っていられなかったのだ。
しかし、結果から言うと、このアンナの目論見は上手くいかなかったのである。
「えっ……と……。なんで?」
知らない人に急に手を握られた青年は、ただこの状況に困惑していた。彼は明らかにアンナを不審がって、彼女の手を解き一歩後ろに引きながら、当然の疑問を口にしたのだった。
返ってきた反応が思ってたのと違うことに、アンナは一瞬面食らったが、直ぐに自分のお願いが受け入れて貰えなかった事を理解をした。
(エミリアの必殺技、効かないじゃない!!)
慣れない事をした気恥ずかしさと、本日の仕事を得られていない焦りから、アンナは動揺し視線を泳がせてしまったが、するとふいに、ローブの中の青年の青い瞳と目が合ったのだった。
グレーがかったその青い瞳は困惑の色を浮かべているが、それでもアンナの事を見つめて、次の言葉を待ってくれていた。
そんな彼の視線に気づくと、アンナは冷静さを取り戻し、直ぐに彼の目を真剣な眼差しで見つめ返して、今度は誠心誠意自分の事情を説明し始めたのだった。
「お願いします。先程今月分の家賃を支払ってしまったから、今本当にお金がない状態なんです。何か今日仕事をしないと、弟にご飯を食べさせてあげられなくなってしまうんです。だから……その依頼を譲ってください!」
そう言って、アンナは深く頭を下げた。
いつもこんなギリギリの生活をしている訳ではないが、家賃の支払いの他、仕事道具である剣が刃こぼれをおこし修理が必要だった事や、弟が流行り病にかかり医者にかかった事、それから弟が通うアカデミーへの学費支払い……。それらが全ていっぺんにやってきて、一時的に困窮してしまっていたのだ。
「弟って、何歳なの?」
アンナの懇願を黙って聞いてくれていたその青年は、彼女の話が一通り終わると、突然そんな質問を投げ掛けた。
「えっと……十二歳ですけど……?」
アンナは青年が何故弟の年齢を気にするのか質問の意図が汲み取れず、怪訝に思いながらも事実のみを答えた。すると、彼女の返答を聞いた彼は、物憂い顔で自分の所見を述べたのだった。
「そっか。幼児ならまだしもそんなに大きい子ならば、一日くらい我慢出来るのでは?」
ここでようやく、彼の質問の意図を理解した。十二歳位の大きい子供ならば、一食くらい抜いても構わないだろうと言っているのだ。
青年の言い分は理解出来るが、弟のことを何より大切にしているアンナにとってそれは到底納得出来ることでは無かった。彼女は彼が依頼を譲る事に消極的であると察知すると、直ぐに追加の説明を付け加えて食い下がったのだった。
「弟は流行病から回復したばかりなんです。なので、ちゃんとご飯を食べさせて弱ってしまった体力を回復させたいの。」
アンナは、彼の目を見て嘘偽りなく正直な気持ちを説明した。けれども、青年は中々納得してくれない。引き下がる気配を見せないアンナに、彼もまた正論を返すのだった。
「それならば、人に借りるとかも出来ると思うんだけども、それはしないの?」
その言葉に、アンナは一瞬言葉を詰まらせた。
彼の疑問は至極もっともなのだけれども、彼女にはそれをする事が出来ない理由があったのだ。
「……既に借りてるんです……」
そう呟くと、俯きがちに苦しい家計の事情を説明したのだった。
「成程……。切羽詰まってるんですね。」
アンナの訴えを親切にも全部聞いてくれた後で、青年は慎重に言葉を選びながら、気の毒そうに彼女に声をかけた。彼は明らかに憐れむような目をアンナに向けている。
そんな彼の様子に気づくと、アンナはここが好機だとばかりに、しおらしくして、もう一押しを加えた。
「しつこくてごめんなさい。でも……、そうなんです、切羽詰まってるんです……」
出来るだけ謙虚な態度で、とにかく深く頭を下げ、ただひたすら依頼を譲ってくれるようお願いをした。
こちらの事情は全て説明したので、後は青年の情けに望みをかけ、アンナは祈るような思いで懇願したのだった。