0. プロローグ
何故私たち姉弟が、このような過酷な目に遭わなければならないのか。もし本当に神という存在がいるのならば、私は間違いなく恨むだろう。
就寝中に見知らぬ大人たちに襲撃されたアンナは、幼い弟の手を引きながら夜の闇の中を必死に走っていた。
この日はたまたま弟が「一人で寝るのが怖い」とアンナの部屋に来て一緒に寝ていたのだが、それが唯一の幸運だった。深夜、誰もいない隣の弟の部屋への襲撃音に気付いて二人は直ぐに身を隠すと、男たちの隙をついてそのまま屋敷を逃げ出す事が出来たのだが、これがもしも、お互いの部屋で別々に就寝していたならばどうなっていたかと思うと、ゾッとした。
男爵であった両親が亡くなり、叔父が男爵代理としてやって来てから身の危険は何度となく感じてきたが、こんなに直接的に襲撃されたのは初めてだった。
(どうやら、追っては来てないみたい……)
後ろを振り返ると、そこにはただ漆黒の闇と静寂が広がっていて、追ってくる者など何も居なかった。
アンナは安堵して走るのを止めると、横でまだ七歳の弟が、しくしくと泣き出した。
「姉様、足痛いよ……」
二人は、着の身着のまま逃げ出してきた為、裸足でここまで走ってきていたのだった。
「ごめんねエヴァン。足痛いよね?でも、もう少しだけ頑張ろうか。」
男爵領地内に居ては、直ぐに見つかってしまうだろう。何とかして隣の領地に逃げなくてはいけない。
「エヴァンの事は、絶対に姉様が守るから。だから、ね、もう少し頑張ろう?」
泣きじゃくる弟を抱きしめながら宥めて、エヴァンの様子が落ち着いたところで二人は手を繋いでゆっくりと歩き出した。
暗く静かな夜道を弟の手を引いて歩いていると、再び不穏な感情が込み上げてくる。
何故、私たちがこんな目に遭わなければならないのだろうか。
叔父は私たち姉弟が成人したら、この男爵領を譲らなくてはいけない事が嫌だから私たち姉弟を殺そうとしているのだろうか。
若干十二歳の少女には、大人のあさましい考えなど到底理解できなかった。
ただ、自分たちを殺そうとしている叔父への憎悪だけが膨れ上がっていく。
自分たちから両親との想い出が詰まったこの大好きなラディウスの領地を奪おうとしている叔父の事が心底許せなかった。
しかし、そうは思っても若干十二歳の少女には、なす術が何も無い。
アンナは自分が子供で無力である事を分かっていたから今はとにかくこの地から逃げて、弟と二人生き残る事に集中しようと考えた。
反撃の機会は、いずれきっと作ってみせる。
「お父様、エヴァンと領地はアンナが絶対に守ってみせます……」
唯一持ち出せた、父の形見の騎士剣を胸に抱いて、少女は固く決意したのであった。
***
身の危険を感じて弟のエヴァンと二人男爵家から逃げ出してから五年、アンナは弟と共に王都で平民として暮らしていた。
あの日弟と暗い夜道を彷徨っていると、偶然通りかかった親切な冒険者達が二人を助けてくれた。
冒険者達は、夜中に裸足で逃げ出してきた子供達を不憫に思い、そのまま暫くアンナ達姉弟の面倒を見てくれて、アンナに冒険者になる為の手解きまでしてくれたのだった。
元より騎士の家系であった為にアンナは女の子ながら幼少の頃より父に剣の指導を受けていたし、魔の森と呼ばれる魔物が多く住む森が領地の側に有る為に、領主の娘として父親と一緒に低級な魔物を討伐した経験もあったので、他に術を持たないアンナが剣士として冒険者ギルドに登録し生計を立てる事は、最良の選択であったと言えるだろう。
冒険者ギルドの仕事は、アイテムの採取や、護衛、運び屋等、多岐にわたっているが、やはりその仕事の多くは魔物討伐が主であり、危険が伴う仕事ほど、報酬金も沢山もらえるものである。
しかし、いくら剣の腕に覚えがあったとしても、元男爵令嬢である彼女が冒険者として一人で生計を立てるには危険が多く、事実この五年で何度も危ない目にも遭ってきた。
それでも……
彼女が挫けなかったのは、父の遺言通りに弟のエヴァンにラディウス男爵領を継がせたいという強い想いを抱いていたからだ。
こうして平民の中に紛れて暮らし、彼女は虎視眈々とその時を、アンナ自身が十八歳の成人を迎え叔父から男爵の爵位と領地を正式な手続きによって取り返す時を狙っていたのだった。