82 花の名の姫君
この季節、アクアジェイルの日の出は五時ごろ。まだ四時間近くある。
アイリスはサジェスとの十分間におよぶ不毛な押し問答を経て、ついに彼を寝台に横たえることに成功した。
つまり。
《……なんかさ、ダシにされてない? 僕》
「気のせいよ。アクア」
「そうだ。今夜ばっかりはお前がいてくれてよかった。頼むからそこで、平穏なる国境地帯になっていてくれ。いまは、アイリスとは停戦だ」
――妙に必死な二人に挟まれる幻獣がいた。
部屋の明かりと暖炉の火は消してある。辺りは、温もりの余韻のある闇に満ちている。
寝台の右側と左側で布団に入る二人の間にアクアは鎮座した。翼を休める姿はぼうっと暗闇に浮かび、目にやさしい発光具合なのでちょうどいい。
苦肉の策ともいう。
あれから“心話”で、アイリスが呼んだのだ。
アクアは、こてん、と首を傾げるようにサジェスを流し見た。
《ケンカでもした?》
「いいや? しいて言うなら、互いに仲よくなりすぎないための」
「!! あっ、あの、殿下! 少しでもお休みくださいませ。わたくしには、殿下に無茶なお願いをした責任があります。必ず夜明け前にはお起こししますから」
《…………》
「まぁ、たしかにちょっとは寝たほうがいいかな……。わかった。寝過ごさないようにする。君も休め」
「いえ、わたくしは」
《いいんじゃない? 僕が起こしてあげる》
「でも」
《いいから!》
結局、アクアからの「人間は寝ろ」というありがたい訓示に諭され、アイリスも渋々目を閉じた。
「おやすみ、アイリス」
「……おやすみなさい。殿下」
* * *
(せっかく気、使ったのにな)
やれやれと脚を折り、アクアも布団の上で横になる。
サジェスの呼気が寝息に変わったころ、アイリスもようやくうとうととし始めたようだった。横を向き、アクアの幻のからだに触れるように手を伸ばしている。
……どれだけ邪魔にならないように離れていても、彼女の心理状態などは伝わるわけで。
《やせ我慢。さっさと素直になればいいのに》
アクアはぽつり、と、眠るアイリスの心に呟いた。それから祈る。
――まだ、自分が宝石に封じられていたころ。
彼女の夢に偽りのない「希望」のイメージを送ったことがある。
なりゆきではあったけれど、少しの間身に付けられた。無意識の寂しさと孤独に凍えそうになっていた魂に、少しでも前を向いてほしくて。
思えば、そのころから彼女を主と定めていたのかもしれない。
暁の光はサジェスを。
濃紺のアクア輝石はアイリスの象徴だ。
その姿を再度、えがく。
――……なんだこれ。実現すれば、すごくすごく幸せじゃないか。
ふう、と満足げに息を吐いたアクアは、アイリスの手のすぐ近くに鼻を寄せた。ころりと転がる。眠くはないが目を瞑る。
自分は、冬の凍気を糧とする幻の獣だけれど。
人間のあったかい気持ちも、きらいじゃない。
そんな発見も意外と心踊るもので。
アイリスと出会って、初めて得られたもの。
純粋だし、尊いと感じる。
悦びだった。
* * *
夜明けの光が街を染めてゆく。
器用にもきっちり起きたサジェスと、ぼんやりしているアイリスはアクアに見送られ、北都西側の城壁の上に“転移”していた。
「すごい……まだ、夢を見てるみたいです」
「夢?」
「おかしなことですけど、以前も見たような…………。あぁでも、こんなに綺麗だったんですね。夕暮れとは違う」
「だろう?」
ふふっと笑うサジェスに、後ろから抱きすくめられている。そこそこ風があるので、たしかにこのほうが温かい。
――間違いではない、とサジェスは言い張った。若干流されている気はするが、まぁ良しとする。
北都の城壁は高い。あちこちに建つ塔は神殿だったり、時計台だったり、さっきまで自分たちがいた公邸だったり。それらと街並みをつくる建物の多くが。敷石が。すべてアクア輝石なのだ。
東側の城壁の向こうに、深い森がある。その向こうの山並みを白く染め上げた日は夕陽よりも楚々として、けれど大きい。そして、やさしい。
夜闇が光で払われてゆく。振り仰げば西の空も薄い群青。
目の前で、石造りの都は影の部分がふつうの色。光を受けた部分は見たことのない湖や海の波打ち際のような、煌めく青に輝いていた。一瞬の美。
「前、街歩きのお供をさせていただいたときは、もっとオレンジ色でした。それと青の対比も華やかでしたけど。……殿下が『見たい』と望まれたの、わかる気がします」
「ずいぶんと昔のことを覚えてるんだな」
「大事な思い出なので」
「……そうか」
きゅ、と、胸の前に回された腕に力が込められて、意識が景色から後ろのサジェスへと引き戻される。とたんに動悸が激しくなった。
温もりと、見たかった景色。
その両方を与えてくれたひとに、また。
「殿下」
「ん」
わずかに体をずらし、至近距離にある彼の顔を見上げた。
風よけのフードに隠れてもきらきらと強さを秘める紫の瞳。靡く、紅の髪に目を細める。――気持ちがとうとう、こぼれた。
「好きです。あなたが。ずっと、通ってくださることも嬉しくて。あなたを通して、わたくしは『外』を感じていました。けれど、これからは……」
「これからは?」
ごくり、と喉が上下する。
こんなに満たされていいんだろうか?
――大好きなひとがいて、自分だけを見つめてくれる。同じ景色を見せてくれる。望みさえすれば。
「あなたの妃になりたいです。そうなれるよう、努力します。先のことはわかりませんが…………きゃっ!」
「よく……、よく言ってくれた! ありがとうアイリス。約束する。君だけだ。絶対、君にふさわしい王になる。慈しみ深い聖女のような君に」
「え? 聖女?? 何ですかそれは」
急に抱き上げられ、それから思いきり抱きしめられたアイリスは、サジェスの腕のなかで目を白黒とさせた。
曰く、季節限定でも体調の許す限り兵舎や官舎に赴いて声がけや差し入れをして、足は運べなくとも街の施薬院や孤児院に寄進をしていた事実は、回り回って大層な呼び名をもらうまでに至っていたのだと。
「――いまこうして触れられる、そのままの君が何より愛しいんだが」
前置いたあと、サジェスはこの上なく嬉しそうに囁いた。
「君の体質や、アクアのことも。大々的に広めてもいいだろう。これからは魔族領との交流も盛んになる。そのとき『めずらしい力と守護幻獣を持つ姫』は、王都の民からも熱烈に支持されるはずだ」
「! ずいぶん、ちゃっかりなさってるんですね」
「嫌いになった?」
「そんなわけ、な……」
こうして、すっかり夜が明けるまでに、二人は晴れて婚約のキスを交わした。
――――その後?
もちろん、ゼローナの王太子サジェスと北公息女アイリスの婚約は大々的に発表され、アイリスは、十六歳になる夏の終わりを境に王城へと住まいを移すことになった。
生涯仲睦まじく。
時おり冬のさなか、大晦日ともなれば夜空にうつくしい氷の大輪の華を咲かせるまでに傑出した氷魔法の使い手ともなった、得がたい王妃のお話は、ゼローナの子どもたちに一番愛される物語になったという。
サジェスは聖女を妻にした日の王と謳われ、吟遊詩人がもっとも修得にはげむ歌となった。
それはもちろん、二人がまだ結婚して間もないころから。何しろ、結婚してから即位までは十年もあったので……
結ばれて早々に身ごもったり、玉のような男子を授かったり。
めでたしめでたし、と結ばれるにふさわしい二人であり続けたという。
――――慎ましやかな花の名を持つ姫君は、大好きなひとに寄り添い、健やかに。
fin.
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