81 反撃のアイリス
消えたアクアを追いかけるように“転移”した。
瞬時にたどり着いたアイリスの居室は二間とも明かりがついており、その時点で疑問符が脳裡を掠める。
時刻は深夜。
いつもなら、暖炉の火は落とされているはずなんだが――
ぱち、と薪のはぜる音がして辺りを見渡すと、予想に反し、寝台ではない場所に彼女はいた。
どうしても起きていたかったのだろう。いじらしいことに暖炉近くの安楽椅子で目を閉じ、すやすやと毛布に埋もれている。肩まで。
(~~アイリス……! それなら寝台で眠ったほうがずっと暖まるし、休まるのに)
名を呼び、近づいても起きる気配はなかった。
寝顔は安らかだ。
どうかすると物語の眠れる乙女のよう。
わずかにひらいた唇に口づけて、魔法を解いて、目覚めた彼女を自分だけのものにしてしまいたくなる。
――今日の会食を辞退していたことからも体調を心配していたが、暖炉の火明かりを受ける頬はうっすらと色づき、ほんのりと血色よく見えた。
(大事なさそうだな)
ほっと吐息し、安楽椅子の背もたれに右手をかける。
耳元に顔を寄せ、できるだけ小声で囁いた。
「来たよ。遅くなってすまない」
「…………殿下……!? す、すみません。お呼びしておきながら眠ってしまって」
「構わない。いいよ。そのままで」
わたわたと毛布や膝掛けを畳み、立ち上がろうとするアイリスをとどめた。が、結局居住まいを正して立ってしまう。
女性をじろじろ見るのはマナー違反だが、頭の天辺から爪先まで彼女を眺めると、寝巻きではなかった。ふつうに着心地のよさそうな、踝まで隠れるロングワンピース。
あかあかと明かりが灯された部屋といい、今夜は夜更かしをする気満々だったようだ。
よく見ると、サイドテーブルにはクッキーと二人分の紅茶まで用意されている。ご丁寧なことに、ある程度保温の効く蓋付きの容器だ。
サジェスは、あらたまって聞いてみた。
「招いてもらえたのは天にも昇るほど嬉しいが……こんなに部屋を明るくしていいのか? いつも目ざとく控えている側付きの者たちは?」
「まぁ」
塔の事情と人員、間取りを完全に把握する王太子殿の物言いに、アイリスは、くすりと笑う。
「いいんです。熱があるわけではありませんし。会食を辞退して仮眠をとったら、体も楽になりました。侍女たちには、たまには本館の自室で休むよう言い含めています。明日の朝まで」
「え? それじゃ」
「……はい。その」
二人きりです、と視線を泳がせる彼女はやけに可愛らしく、それだけで目眩に似た衝動に襲われる。
額に手を当てたサジェスは、軽く呻いた。
アイリスが歩み寄り、そっと覗き込む。
「? 大丈夫ですか、殿下。よろしければ寝台をお使いいただいても――」
「いや。平気だ。ちょっと一瞬、己れの理性がぐらついただけで」
「りせ…………ぁ、はい」
「……」
反 則。
頬を染めて顔を背ける彼女に、もともと強靭でもなかった自制心はあっという間に溶けた。甘やかな衝動ばかりが勝る。
手を伸ばし、華奢なからだを引き寄せる。
椅子の上で畳まれていた毛布を広げ、肩から包み込むようにして抱きしめた。
「俺一人で君の寝台を使うわけがないだろう。……それとも、いいの?」
「えっ? い、いいえ。あああのッ!?」
とたんに暴れだした彼女を温めるふりで、よりいっそう強くかき抱く。
うなじのあたりに指を沿わせ、真っ赤になった耳を露にさせた。わざと触れると、細い肩がびくっと跳ねる。限界かも。
細くもれる溜め息が我ながら悩ましく、どうにもならない愛しさに目を開けていられない。彼女の頤をもたげ、ゆっくりと口づけた。――息が、止まるほどあまかった。必死に応えようとする仕草を感じとり、(求婚って何だっけ)と、不埒な考えが過る。
息継ぎにずらした唇から、可憐な抗議の声がもれなければ、由々しくも続行したかも。
「ごめん。急いてしまった」
「い、いえ。わたくしこそ。考えなしなことを申し上げました。すみません」
――――この時点まで二人とも、なぜアクアがいないのか考え及びもしていない。(※逆に、そこでようやく考えが至った二人は、同時に赤面した)
はぁ、と肩を落としたサジェスは「おいで」とアイリスを導いた。大きめの安楽椅子に座り、膝の上に彼女を乗せる。
うん。充分あたたかい。
「――そういえば、今夜こそ正式な返事をもらえると思ったんだった。……どうかな。俺は、君の人生を預けるには足らない……?」
「殿下、そんな! わたくしのほうこそ。身に余ります」
「じゃあ、是と?」
「うっ」
言葉を詰まらせ、あえぐ彼女にちょっとだけ意地悪な気持ちになった。じっさい、そんなに余裕はないわけで。
「俺はたしかに、王位を継ぐ立場にある。それを含めて受け入れてほしい。……君でなければ、つとめは果たせても心が死ぬ。それでも?」
「――っ……!」
進退極まれり、という風情のアイリスが息を飲んだ。せわしく瞬く大きな瞳に、言いようのない葛藤が透けて見えて。
まぶたに。こめかみに。
キスしてたたみかける。
「いやなら言って」
「でっ……ああ、もう!!!」
じたばたともがく少女が懸命にこちらの胸を押し返すのを、サジェスはちくりと刺さるように感じた。
だめかな。
気弱になった、そのときだった。
「あ」
……。
…………。
………………逆に、アイリスから唇を押し当てられた。震えていた。
「アイリス」
呆気にとられる王太子殿下に、夏霞の姫はどこか、くやしそうに言い募った。
「もう。あなたと来たら……! 知りません!!」
「! ええぇっ!??」
おまけに、これ以上視線にさらされてはかなわない、と言わんばかりに手のひらで視界を塞がれる。
なんだこれ。
――反撃、というか……。
動きの固まったサジェスに、アイリスはあらためて深呼吸をした。
「どうか。わがままと取っていただいて構いません。嫌われても。一度だけでいいんです。お願いを、聞いていただけますか……?」
「喜んで」
そっと手を外す。
『何か』を決めた気配。
姫君は、彼女としてはあるまじき最大限の大冒険を。――――明けどきの出奔をお望みのようだった。