80 ただ、ひとめ
引き裂かれる――心が。
じくじくと血を流すようだった。
たしかに体はくたくただ。一日は長かったようで、あっという間。たくさんのことがあった。
(どうしよう。よりいっそう、あのかたの優しさにつけ込んでいる気がする)
つい、そう考えてしまう己れの狭量さにも、ほとほと嫌気が差す。今日は大反省会だ。
アイリスは、あらかたの侍女を本館まで下がらせた気安さで窓辺に立ち、堂々と溜め息をついた。
* * *
肝心のお見合いが中途半端だったこともあり、結論は宙ぶらりん。
日は刻々と暮れて、外はもう茜色。
コース料理を食べられる体調でもなく、数少ない公務だった賓客との会食も辞退した。
――――生きたい。
大好きなひとの側にいたい。
大切なひとを、支えられる自分でありたい。いつかは。
そう願うことと、いまの自分との剥離の激しさに、とっぷりと懊悩する。
これのどこが王妃候補?
結ばれることで恩恵に与れるのは自分だけなのに。どころか、あのひとにとっては。
『中和だからな』
そう、ユウェンは言っていた。
極度の陰の魔力を抱える自分と交わるということは、サジェスの突出した、貴重な陽の魔力を翳らせるということ。
場合によっては――……彼の力を弱らせてしまうかもしれない。それが、怖い。
けど。
あなたの思うように、と、背を押してくれた母を。
元気になれるかもしれない未来に賭けて、素直になったら? と、すべて見透かした上で勇気づけてくれた弟を。
――――……思い出す。引き裂かれる。どうしようもなく逢いたい。理屈じゃなかった。ただ、ただひとめ、逢いたかった。
コツン、と窓硝子に額を打ち付ける。春の宵は冷える。透明な硝子は淡く呼気に曇り、たちまち戻って元の暗がりとアイリスの顔を映した。
その段で、アイリスはようやく、いつの間にか日が傾ききったのを知った。周囲の木立にかかるオレンジの残照が消え去るのを見逃してしまった。
(……そう言えば、朝焼け……)
じつは、離れの塔の自室からでは、北都名物の落陽と暁の『青の都』を見ることはかなわない。
昔、初めて出会ったサジェスは言っていた。
朝焼けのアクアジェイルを見てみたかったんだ、と。
彼のことだ。もう、何度も見たのだろう。
けれど、なぜかいま、自分も見てみたいと切望した。急な衝動だった。
もし。
もしも、あのひとと一枚の画のように、一つの景色を分かち合えたら。
(……)
瞳に意思を込める。
かちりと施錠を開ける。
窓を押しあけ、雲ひとつない星月夜を仰いだ。風もさほどない。穏やかないい夜だ。
「……晴れるかな」
呟き、窓を閉めた。後ろを振り向く。
寝台で寝そべるアクアとしぜんに目が合った。自分でも驚くほど、ふわりと微笑むことができた。
「ねぇアクア。お使いを頼まれてくれないかしら」
《いいよ。何て伝える? 今上魔王が“力”を分けてくれたから、ちょっとくらいならあいつと話せるよ》
もはや誰に? とも尋ねられない。
心の声が筒抜けだった証に、アイリスはちょっとだけ困った顔になった。ほろにがい微苦笑。
まぁいいか、と肚を据えて。
「殿下を呼んできてくれないかしら。お休みになる前に。『夜明けまでに、いつでもお越しください』と」
《いいよ》
きらりと紫紺の瞳が煌めく。
まるで、そうこなくっちゃ、と言っているようだった。
心話が伝わるや否や、すぐに翼ある幻獣体に変化し、宙に浮かんで消えてゆく。
アイリスは、決戦前のような鼓動を感じつつ、そっと胸を押さえた。
(行ってらっしゃい)
アクアには届いている。信じて疑わなかった。
同じくらい、きっとサジェスは来てくれると確信した。
心は澄み、焦ることなく、『そのとき』をしずかに待った。
* * *
その猫は、前触れなくサジェスの前に現れた。
「!!! ッ――!」
サジェスは、思わず飲みかけのワインを吹いた。
この場合、相手が実体でなくて良かった、白ワインで良かったな、などとばかなことを考えつつ、彼が来た理由にも思いを巡らせる。
その一、気まぐれ。
その二、狙い定めて遊びに来た。
その三、よもやまさかのアイリスの使い。
「まさかな」
ふっ、と笑って備え付けの布巾をとり、テーブルを拭く。
その様子を、アクアは呆れたように見おろした。まぼろしの翼が優雅に上下する。乳白色の光をこぼす。
《マスター……。いや、打ってつけの人材だし、間違いなくお似合いなんだけど…………なんだろう。なんで、百人中六十人くらいは『えぇ~、こいつと?』って思われるような相手を選ぶんだろう》
「こら。聞き捨てならん…………ん? 待て。お前、とうとうアイリス以外とも喋れるようになったのか」
《お陰さまで》
「彼女の魔力の賜物か?」
《ううん。魔王が昼間、力を分けてくれたから》
「そうか。なら、いい」
やれやれとソファーに座り直し、再度グラスにワインを注ぐ。
今日は、せっかくアイリスと過ごせるはずがとんだハプニング続きだった。仕事の予定が早められて詰まったこともあり、やけ酒だったりする。――意識が冴えるだけで、そう大して酔えないんだが。
こく、と一口含んで、まだそこに浮かぶ翼猫に視線をくれた。
「どうした? 用件があるなら言え」
アクアは、ちょっとだけ天を仰いだ。
何らかの葛藤と戦っているようだった。
やがて、おもむろにテーブルに降り立ち、翼をきちんと折り畳む。少しだけ畏まって見せた。
《――我が主より伝言。『夜明けまでに、いつでもお越しください』って。……いいね? 伝えたからね!?》
「え」
一瞬の呆けた隙を突き、アクアが飛び立つ。羽一つ残さず消え失せる。
サジェスは、さっと部屋の時計を確認した。深夜の零時だった。
「(お前っ、ちょ……! そういうことは、もっと早くに言いに来い!!!!)」
――時間帯に配慮したサジェスは、かなりのこそこそ声でアクアを罵倒した。
間髪入れずに《うるさいなぁ。だって、マスターに『お休みになる前』って言われたんだもん》と返答が届くあたり抜け目ない。さすが猫。
サジェスは一応、夜着の上にあたたかな長衣をかさね、裏打ちのあるマントを羽織ってから意識を研ぎ澄ませた。
ひと翔びで、離れの塔へ。