77 お見合い
――王太子サジェスを庭園に案内する、という名目らしい。
着替えを終えたアイリスは、複雑な思いで姿見の前から離れた。
しゃらり、と、下ろしたてのドレスが衣擦れの音をさせる。
薄紅色のやや体に沿った線。手の甲まできちんと覆う袖。いっそう濃い色合いの帯には精緻な刺繍が施され、肩口にはやわらかな真珠色のショールが縫い付けられている。
春浅い野外でのお見合いということもあり、寒さ対策はバッチリだ。温かい。
髪留めは細かな真珠を連ねたヘッドドレスのみ。全体的に大人っぽい。
アイリスは、不安げに周囲の侍女に視線を滑らせた。
「……おかしくない?」
「とんでもない!? おきれいです!」
「お嬢様も今年で十六におなりなんですから……! もっと、自信をお持ちになって」
「きっと殿下もめろめろですわ!」
「そっ、それは」
あまりの剣幕に(それは無いんじゃないかしら)という疑問は飲み込み、ひとまず、彼女たちの努力の結晶を受け入れることにした。
そうこうする間に時計の針はチクタクと進み、午前十時より十五分前。予定された時刻に迫っている。
アイリスは専属侍女一人を連れ、部屋を出た。
塔から一歩出ると、ほのぼのと日差しがそそぐ。
夜明けの印象通りの晴天に恵まれている。
――皆、先走っているだけで、じっさいに会えば違う用件になるかも――……
よくわからない高揚感を打ち消すため、アイリスは必死に求婚という言葉を頭から除外した。
* * *
「…………綺麗だ、アイリス。このまま拐いたい」
「殿下。たとえが物騒です」
「そうかな。真面目なんだが」
「……犯罪ですよね……?」
開口一番、サジェスらしい冗談だなと突っ込めば、真面目に本気だと返されてしまった。ちょっと途方に暮れる。
指定された場所は、王族が滞在する“護りの塔”に隣接した小庭園だった。
ほかのどの場所であってもそうなのだが、北都公邸の隅々までサジェスは熟知している。
名目は、しょせん名目。
付いてきた侍女も、先導してくれた騎士も、庭の入り口に立っていた王太子に自分を委ねると、「では、我々はこれで」と一礼して去ってしまい、アイリスを驚かせた。
……未婚の男女って、こんなに簡単に二人っきりになって良かったのかしら(※だめです)
と、呆けてしまったのは秘密だ。
表面上は平静を取り繕い、懸命にしょっぱい通常運転を心がけているのに。
この、王子殿下ときたら……!
一周回ってだんだんむかむかし始めたアイリスは、無意識に拗ねた口ぶりになった。
「ルピナスは、王城の夜会については教えてくれませんでした。……ルシエラ様のことは聞いていますが、そうではなく。たくさんのうつくしい令嬢がいらっしゃったでしょう? 殿下がた――殿下は」
「…………うん?」
やたらと間をためて、笑顔で先を促す彼が少しうらめしい。諦めて、胸底に燻っていた思いを吐き出した。
「殿下はおやさしくて、同じだけ狡くていらっしゃいます。わたくしは幼いときから貴方しか知りません。北都しか知りません。なのに、殿下はもう、わたくし以上に公邸にも街にもお詳しくて」
「……」
――困った。無言。何も言われない。
かわりに、さわさわと足元で緑銀の細い葉が風に靡く。慎ましやかな薄紫の花も一斉に揺れる。
誰もいないのは深夜の自室も真冬の湖も一緒なのに、『公の見合い』が、こんなにも緊張するものだとは思わなかった。
不安を抑えるため、きゅ、と手元のショールを掴む。立ち止まる。
隣で、同じように足を止めたサジェスの顔を見るのが怖かった。
それでも伝えなければ、このひとが本意を教えてくれることなど、おそらくは一生ない。喪失の予感に震えながら言葉を紡ぐ。
その震えも、できるだけ悟られないように。
「正直に仰ってください。王城で……夜会で、どなたか。お見初めになったかたがいらっしゃるのではありませんか??」
勇気をふるい、ぱっと顔を上げる。
すると、初めて見る、世にも信じられないものを見つめるような表情の彼がいた。
「アイリス。……君ってひとは……」
「?」
サジェスは、ぽかん、としたあと、はっきりと耳を紅潮させていた。
(あ)
よく見ると、自分が贈ったアクア輝石の耳飾りを付けてくれている。
それに気づくと同時に、自分も頬が熱くなった。
え、あれ。ちょっと、雲行きがおかしいかもしれない…………天気ではなく、自分たちの。
サジェスは震える声で問いかけた。
「ほかには? 何が気になる?」
「えっ。ほかに? ええと……たとえば茶会参加者でしたら、今回のお客様のミュゼル様も。たいそう素敵なかたです。きっと、お妃様にふさわしいです」
「聡明な令嬢だが。ないな。それから?」
「妹君のロザリンド王女は、あなたの婚約を阻止したいと」
「妹の悋気は激しいが、俺だけじゃなく弟たちに向けても一緒だ。あと、勘だが、あれは何か隠してるな。わざと父母を困らせている感がある。それで?」
「そっそれに……! わたくしは。殿下もご存じでしょう? 虚弱です。ゆくゆくは王妃に。ましてや、国母など無理です……!!」
「よし、わかった」
「!! きゃっ!?」
そこまで聞き出したサジェスの行動は早かった。さっとアイリスの背と膝裏に手を当て、抱きかかえてしまう。
(~~どうして?? ちょ、ぜったいこれは、護衛の騎士様からは丸見えのはず……!)
「殿下、おろして」
「いいから黙って。つかまって」
「え、あ――」
おろおろとする間に、言われるがままについ、王子の首に腕を回してしまう。
そのことに、ふわりと微笑まれた気がした。
遠くから慌てたような気配。肩越しに警護に付いていたらしいキキョウの姿が見える。
「あの」
――――――――
それ以上、言えなかった。
やはりというか、さすがというか。
サジェスは、ここではない『何処か』に向けて“転移”の魔力をふるった。