75 逢えない夜の果てに
「一生の不覚よ……!」
寝返りを打ち、ぽすん! と枕に額を沈ませたアイリスは、手のひらを枕の下に差し入れるとそのまま動かなくなった。
首の鈴を取った猫が音もなく寝台に飛び乗り、華奢な肩に甘えるように鼻面を擦り付ける。
《なんで? 寝ちゃったこと?》
(――そうよ。幻獣のあなたにはわからないでしょうけど。人間には、色々と決まりがあるの。生まれた家によっては務めとか、やるべきことが)
《ふう~ん》
「………………」
アイリスはしばらく煩悶したあと、おもむろにアクアへと腕を伸ばし、胸元に抱き込んだ。
「!? ふぎゃっ!」
(ふだん、何の役にも立たないわたくしにとっては挽回のチャンスだったのよ? 今日の宴はとくに、例の魔族のお客様も交えた大切な場だったのに。…………そりゃあ、行ったからと言って、特別なことができるわけでもないのだけど)
――日は、暮れたばかり。
えんえん“心話”で語りかけている。
医師から安静を言い渡されたアイリスのため、続きの間にはまだ侍女が控えているからだ。
こういうとき、アクアと心で会話ができるのは良かったと思う。(※数度、おかしな独り言と思われてしまった経緯をふまえての所感)
いっぽう、哀れな鳴き声をあげたアクアは主の腕のなかから抜け出るべく、懸命にもがいていた。それなりに気は遣っているらしく、不用意に肌に爪を立てたりしないように。
それが、ぴたりと止まる。
(?)
アイリスはふと尋ねた。
(ごめんなさい。きつかった?)
《いや。いま、マスターがあいつらのことを言ったから。その…………こっちこそ、ごめん》
(何が?)
ふわふわの、よく手入れされたミルク色の毛並みから顔を離し、アイリスはそっと腕の力を弱めた。
もぞもぞと布団から抜け出てきたアクアは、ばつが悪そうに髭を動かしてアイリスを見つめる。
《行ってほしくなかったんだ。言ったでしょ? あのなかには、絶対に“魔王”がいる。僕を封じて、道具扱いした奴がほんの少し気配を変えて紛れ込んでるんだとしたら…………怖くて。つい、君の魔力を吸いすぎた。ごめん》
「アクア」
そこまで聞いて、なるほど、と合点が行った。年明けと違って意識はあるのに、同じくらいに体が重い。
医師の見立ては間違いではない。盛装しての数時間の社交など、むりだ。感覚としてわかるほどにはお馴染みの気だるさだった。
いいよ、と心で呟いて、もう一度アクアを抱き寄せる。
猫は、今度はされるがままだった。
《マスター?》
(――いいわ。そういうことなら。そもそもあなたが居なければ、わたくしは、去年から今年まで無事に過ごせたかもわからなかった。例年に比べたら、今年の春はずいぶんとましなのよ?)
《マスター……》
しゅん、とうなだれる猫の背を撫でる。
喉は鳴らなかったけれど、人間に撫でられて嫌なわけではない、ということは伝わった。それは、心話ではなく。
返事はなかったけれど、大人しく枕元で体を丸くする猫に、寄り添うようにこめかみをくっ付けて瞳を閉じる。眠気は訪れなかったものの、つい、本心がこぼれた。
(サジェス殿下に……聞きたかったな。王都のこと。夜会のことを。たくさん)
《…………》
アクアは、わずかに耳を動かしただけ。
――――ちょっとだけ、夜中にサジェスが来てくれないだろうかと思わなかったわけではない。
今までのことを考えれば、来てくれるような気がした。
けれど、夜が明けて窓の外がしらじらと明るんでも、彼は訪れなかった。
昼間たくさん眠ったアイリスは、とうとう一睡もできなかったのだが。
(やっぱり。サロンでお会いしたときも、いつもとご様子が違ったわ。『あとで』と仰ったのに…………あれは、どういうこと? ひょっとして)
「!」
はっとした。
覚悟していたはずなのに、無意識ではまさかのことだと構えていた。都合のよい願望の発露に、じわじわと恐ろしくなる。
空は晴れている。夜の静寂が鳥の囀りで薄れてゆくのが、今日もよい天気になることを殊更はっきり教えてくれた。
なのに。胸裡が。締めつけられるようにくるしい。
(……どなたかを、王城でお見初めになったのかも知れない。本当は。もし、あのかたが優しさや責任感で、わたくしに求婚してくださっているのなら)
「諦めなくちゃいけないわ。今度こそ、ちゃん、と…………っ……?」
ほろ、と涙がこぼれて、自分で驚いた。
アクアはいない。それで一人、窓側を向いてこめかみを伝う熱さに戸惑う。
かろうじて嗚咽を飲む。
誰も見てはいないのに。
―――とっさに、上掛けを頭まで被った。
定刻、いつも通りに侍女が起こしに来て、寝台の帳を開けられる。
ちょっとの間、まどろんだ。
手を引かれ、身支度がどうのと早々に連れ出される。
(???)
ぼうっとして聞き逃した言上を、アイリスは再度尋ねた。
「ごめんなさい。もう一度言ってくれる? 聞き違いだと思うんだけど」
きちんと糊がきいた白いエプロンドレス。くるぶし丈のお仕着せ。ぴしっとまとめられた髪。おそらくは、主以上に気合いが入っている。
アイリス付きの専属侍女は、確固たる口調で告げた。
「ですから。今日は午前、サジェス殿下とお嬢様は内々ではございますがお二人で、庭園で過ごしていただくことになっております」
「は?」
「~~んもうっ! もっとシャッキリお喜びになってくださいませ。とうとうご婚約が叶いますのに。待ちに待った、公式の『お見合い』ですわ! さあ浴室へ。今朝は、我々総出でお嬢様を磨かせていただきますわ……!!!」