74 姫の不在
「ん? アイリスは?」
――“舞踏の搭”に比べて格段に低い天井。ちょっと広めのサロンのような部屋。
けれど効果的に壁面に鏡を配し、きらめくシャンデリアに流れる弦楽四重奏。
出来立てのオードブルや色あざやかなデザートが真っ白なクロスをかけたテーブルに並び、給仕の人員たちが行き交う。
広間は充分な華やぎに満ちている。
ただ、彼女がいない。
サジェスは何となく予想をつけつつ、挨拶を終えたばかりのルピナスに、正面きって問いかけた。
* * *
(これだから、姉上好き好き大魔人は……)
ルピナスは、胸中で大胆な不敬を働いてから、こっそりと溜め息をついた。
王都からの客人と魔族の使節団をもてなすため、北公イゾルデが小宴をひらくとは事前に通達があった。
定刻前ということもあり、広間にはまだ、ほぼ身内の人間しかいない。
場所は第一迎賓館。参加貴族は公爵家のみ。それも非公式。
アクアジェイル史上初と言ってもいい、前代未聞のゲスト――魔族――をこれから迎えるとはいえ、彼らの滞在自体は、じつは今日で五日目になる。
よって、公邸内において、その文化的・友好的態度はすでに知れ渡っていた。
そのため、場には内輪特有のおだやかさが漂う。いわばホームパーティのような気楽さも。
先に配られた果実酒のグラスを片手に、ルピナスは申し訳なさそうに苦笑した。
「どうも、今日は疲れたらしくて。昼過ぎに支度のために専属侍女が部屋に行ったら、机で眠っていたそうです。椅子に座ったまま」
「うたた寝か? かえって風邪をひきそうだ。熱は? いまは、どうなんだ」
矢継ぎ早の質問に、ややたじろぎつつルピナスが答える。
「あ、いや。大丈夫。熱はありません。とにかく昏睡というか……年明けの状態に近いですね。医師からは『無理をせず、今夜は欠席したほうがいい』と。本人は、いまは起きてます。元気ですよ」
「そうか。なら、良かった」
明らかな安堵の息を漏らす王太子に、ルピナスの傍らでイゾルデも、ほんのりと笑む。
「残念でしたね殿下。娘とはべつの機会に?」
「そうだな。頼む」
「機会?」
不思議そうに尋ねる息子に、視線を流した母公爵はフフッと笑った。
「正々堂々と申し込まれたわ。求婚なさりたいそうよ。つまり、公の見合いかしら」
「見合い……って。えぇっ!? 今更?」
「待て。たしかに私的な求婚は何度かしたが。俺がイゾルデ殿に頼んだのは、余人を介さない『説得』の時間をくれという」
「王太子殿下。お言葉ですが、それは、成人済みで婚約者のいない娘には歴とした『見合い』です」
「よかったじゃないですか、殿下。やっと前進という感じで」
「………………ルピナス。お前、ほんっとうに可愛くないなぁ。王都ではあんなに淑やかだったのに。初日の茶会と、ユウェン殿に見破られたあの夜だけは」
「!? ちょ、殿下っ。それは!」
とたんに頬を染めたルピナスが気炎を上げ、勢いよく詰め寄る。
胸元までしかない背丈。つややかな藍色の髪。アイリスに似た面差しに上目遣いで睨まれ、サジェスはにやりと笑った。
「事実だ」
「~~女装は、不可抗力……ッ!」
「まあぁ、それは。ぜひ、詳しく聞かせてくださいな。殿下」
「いいですよ」
「!?!? 母上までッ!?」
堅物の母までが、まさかそんなことを……と、相当の衝撃を受けたらしいルピナスの肩を、サジェスがぽんぽんと叩く。片目を瞑って囁いた。
「冗談だ。ほら、エスト家のミュゼル殿が来られたぞ。一曲踊ってきたらどうだ。北公家嫡子らしく」
「えええ……」
反射でのけぞる。
べつに、ミュゼルが嫌いなわけではないが、何かをはぐらかされた気がしたルピナスは、『面白くない』を地でゆく表情になった。
すると、ずっと兄の隣で静観につとめていた第三王子アストラッドが一歩近づき、にこやかにその手をとる。
「よし。何なら、僕が君と踊ってあげてもいいよ。ルピナス」
「冗談は寝てからどうぞ。アストラッド殿下」
「もちろんだよ、寝言ならね――――兄上? ちょうど使節団の方々もおいでですから、行ってらしてください。イゾルデ殿も。今夜は、彼らと積極的にお話しなければならないでしょう?」
「あぁ」
「いたみいります、アストラッド殿下」
「いいえ。こちらこそ」
優雅な一礼のあと、北公イゾルデは王太子を伴い、広間の反対側へと歩んで行った。
その先には角があったり鱗があったり、羽が生えたりと一見してそうとわかる一団。
ルピナスも最初こそ驚いたものの、彼らの態度は洗練されており、振る舞いはとても紳士的だった。なかには見目うるわしい女性も混じっている。
現在の魔族は、およそ上位とされるものほど理性的らしい。
(大戦のころとは違う。魔王が違うと、こうも違うんだな)
母とサジェスの背を眺め、しばらくぼうっとしたルピナスは、ふと思い出したように瞬き、同い年の王子にジト目を流した。
「……猫っかぶり王子」
「何か言った? ルピナス」
「いーえ、何も」
やがて「まあ、仲がよろしいのね」と朗らかなミュゼルが加わることで、場はいちだんと華やぐ。
――が、彼女はなぜか出会い頭のサジェス同様、アイリスの不在を知って、がっくりと肩を落とした。
「はあぁ……。つまらない。ヨルナもいない。アイリス様も病み上がりで欠席。綺麗どころのない宴は潤いに欠けますわ」
「……」
「あぁうん。そうですね」
――――そう。ルピナスは東公息女ミュゼルが嫌いなわけではない。
ミュゼルが、堂の入った可愛い女の子好きというだけなのだ。