73 ギフトと午睡
ちょっと前後してしまいましたが、アイリスのターン。「71 猫も歩けば魔王に当たる」の続きになります。
キィ、と音がした。
キキョウが館の扉を開けて出てくる。
猫を抱えたアイリスは気遣わしげに首を傾げた。
「いかがでした? ご様子は」
「はい。カリスト家の姫は、今はお休み中でした。正確には、搭から降りる途中で意識を失われたそうです。ルピナス様がこちらまでお運びしたようですね」
「!? 大変。相当お加減が良くないということ? 大丈夫そうなの?」
「医師の見立てでは、王都からの旅疲れではないかと」
「そう……。まだ十三歳でいらっしゃったかしら。ご無理をなさったんだわ。おいたわしい」
きゅ、と腕のなかのアクアを強めに抱いてしまい、へぐ、と変な声を出させてしまう。
キキョウは複雑そうな顔になった。
「お見舞いは控えたほうが良さそうですね。このまま搭へ?」
「――ええ。そうします。ありがとうございました、キキョウ様」
「どういたしまして」
二人、軽い会釈で礼をとり合う。
こうしてキキョウに付き添われ、アイリス自身は何ごともなく離れの塔まで戻って行った。
* * *
自室では、ヨルナへの見舞いの品を母名義で手配したり、その許可を願う旨をメッセージにしたためて侍女に持たせたり、それなりに忙しい。加えて――
(!! いけない、わたくしったら。殿下からお預かりした、王妃様のお手紙を確認していなかったわ。お礼状を書かなければ)
あわてて視線で探す。
たしか、あの時は階下のサロンで侍女長に頼み、すぐに運んでもらったはず。
やがて、苦もなく窓際の机上に封筒と小箱を見つけ、ほっと息を吐いた。
いつかの朝、まだペンダントだった紫の石を誓いとともに首にかけていた。
アイリスは、その窓辺に歩み寄った。
王妃からの手紙は細やかな気遣いにあふれ、長すぎず短すぎず、とても丁寧なものだった。
王の招集に対し、「双子の弟を身代わりに登城させる」などという暴挙に及んだジェイド家や、体調を崩したアイリス本人を責める文言はどこにも見当たらない。
北の地の遅い春や気候の厳しさを慮り、“元気になったらぜひ、城へ遊びにいらしてね”と、美しい文字でのびのびと綴られている。
なにか、香水だろうか。便箋からは仄かに花の香りがした。
(サジェス殿下の母上。お優しいかただわ……)
しみじみと感慨に耽る。
王妃セネレは、大ゼローナの全女性の頂点に立つべき、尊い存在だ。
おそれ多くも現国王オーディン陛下の唯一の妃であり、三男一女の母であらせられる。
姿絵では少女のように小柄でほっそりとした、淡い金の髪の女性として描かれ、印象からして尊大さとは縁遠い。
強いて言うならば、国母としての尊敬。民からも広く慕われている。
《ねぇ、箱は? 何が入ってたの?》
ちりりん、と鈴を鳴らしてちゃっかりと調子を取り戻したアクアが近づく。
窓辺の書き物机に向かって掛けていたアイリスは、そういえば――と、薄い小箱を手に取った。ちょうど手のひらほどだ。
どきどきしながら蓋を開ける。そこには。
「! すてき……。押し花? 栞だわ」
つややかな深緑の包み布からは、いったいどんな技術を用いたのか。花びらを幾枚も閉じこめた透明な札が出てきた。
重みはない。四辺を薄く金属で囲われ、中央にはことさら小さな花弁を花束のように配置してある。極細のオレンジ色のリボンが装飾的な縁に結ばれ、それは絹のようだった。
――どう考えても値打ちもの。
箱に戻し、さて、お礼状にはどのように……などと考えていると、いつの間にか机に上がったアクアが、ふんふんと栞の匂いを嗅いでいる。
「アクア? どうしたの。栞は食べられないわよ」
《やだなぁ違うよ。魔力の残り香を嗅いでただけ》
「魔力?」
《うん。君がすさまじい氷の魔力を持ってるみたいに、これを作った人間は大地の力に恵まれてる。いい匂い。落ち着く》
「ふうん……」
呟き、言うだけ言って膝に降りてきた猫を撫でる。ごろごろごろ、と、とたんに賑やかになる。
アクア曰く、契約によって“回路”で結ばれた自分には、触れなくとも魔力の供給を受けられるのだという。
とはいえ、魔力を吸われている実感はない。そもそも自分のなかにある『何か』など、生来体感したことはなかった。
が、年明けに建造物を一つ壊してしまった以上、自分にはそれだけの危険があるのだと、認識せざるを得ない。
――――慈味豊かな大地の力。
豊穣。そんな、ことば通りの祝福であれば良かったのに。
「ないものねだりかしら。だめね。つい、欲張りになってしまって。ふぁ……」
独り言のように話しつつ、欠伸が込み上げてしまった。まぶたが重い。急速にまどろみのなかに引きずられる。
アクアを撫でる手を止め、左手で即席の枕を作って机上に伏せた。
昼下がりの日差しが気持ちよく、このまま眠ってしまいたかった。
(そっか。散歩、したから…………? いいかしら。少しくらいなら)
すぅ、と、みずからの呼気が寝息に変わる瞬間を意識した気はする。
アイリスはそのまま、みごとに寝入ってしまった。