71 猫も歩けば魔王に当たる
もうすぐ昼。
サジェスの勧めもあってサロンに居残り、話し相手になってくれたミュゼルを迎賓館まで送ったアイリスは、久しぶりに公邸内の人工水路沿いに散策をすることにした。体力を付けるため、昨年の秋も定期的に回っていたコースだ。
伴はなく一人で……と言いたいところだが、猫が付いてきている。
一人と一匹。
少々肌寒い風は、あたたかな日差しが和らげてくれる。猫はぴんと尻尾を立て、とてとてと隣を歩く。
普段、ひと気のない離れの塔から本館へと続く径と違い、王族が滞在する“護りの塔”や迎賓館の周辺部は若干ものものしい。巡回の騎士に加え、増員された衛兵。やや早足で行き来する官吏の表情も、いつもよりも隙がないように感じる。
――が、彼らはみな一様にとても律儀で、アイリスを見かけると恭しく会釈をして脇に寄ってくれた。
アイリス自身も微笑みや簡易の礼で応える。
それらの気遣いを少し、申し訳なく思いながら。
「おいでアクア」
「にゃ」
これ以上進むと正門に差し掛かり、城下へと面した通りから丸見えになってしまう。そんな丈高い植え込みの手前で立ち止まり、アイリスは足元の猫型の幻獣を抱きかかえた。
くるりとターンして、来た道を戻る。今度は途中で石のアーチ橋を渡り、水路の反対側へ。
頭のなかで地図を描く。
こうすれば、行きとは違う経路で官舎側を通り、最後には迎賓館の脇を通って塔に戻れる。
歩きながら、つらつらと考えごとに耽った。
(……どうしよう。お熱を出されたヨルナ様の容態も、それとなく聞けるかしら。お見舞いの品を手配して――)
《ねえマスター。また、あそこ通るの? いやだなぁ》
「? え?」
突然“心話”で語りかけられ、アイリスはビクッと肩を揺らした。あわてて周囲に人がいないのを確認し、腕のなかを覗き込む。
アクアはアーモンド型の双眸をすがめ、じぃっとこちらを見ていた。
お行儀よく抱っこされた状態で髭をぴくりともさせす、心の声で言い募ってくる。
《ちょっと前から変なんだ。僕が宝石の形で封印されてたころ、ずうっと身近にあった魔力と同じ気配がする。少ーーーしだけ違うけど……行くの、やめない?》
(そんな。せっかく散歩日和だったのに。だれ? どんな気配? わたくしには全然わからないわ)
《んんん…………、魔王とか》
「えっ」
驚きすぎて、つい口に出してしまった。
きょろきょろと辺りを見回し、すっかり挙動不審の体で歩速を早める。
「何々、どういうこと?」
息を切らしながら、とうとう官舎の近くまで来てしまった。
門の柱の影に寄りかかり、声をひそめてアクアを目線の高さに掲げる。猫は、いやいやをするように身をよじった。
《言ったとおりだよ。つまり――》
「…………失礼。そこにいらっしゃるのはアイリス嬢ではありませんか? どうなさいました。具合でも?」
「!! きゃっ! ……あ、キキョウ様」
「すみません、驚かせてしまって」
ずいぶんと久しぶりに会った気がした。
そういえば新年以降、寝込んでいたせいもあるがまったく目にしていない。
まじまじとアイリスの大きな瞳に見入られ、キキョウは照れたように微笑む。
「じつは、公爵様の意向で父から命じられまして。しばらく領地に行っていました。そこから王都に」
「そうだったんですか。エヴァンス伯の……。お疲れさまです。いつお戻りに?」
「ルピナス様が戻られる少し前ですよ。もう、何ヵ月も騎士の身分を隠して動き回っていたので。こういう、正規の勤務は久しぶりです」
「あら」
紳士的に肩をすくめる仕草が彼らしく、アイリスは顔をほころばせる。そうして、ひょい、とアクアを持って行かれた。
「こちらが、サジェス殿下からの賜りものの猫ですね。私が抱えましょう。塔までお送りします」
「あ……ありがとうございます」
ではお言葉に甘えて、と、茶色の括り髪とマントが揺れる長身のあとに続く。
塔までの最短コース――結局、アイリスは人工水路に囲まれた迎賓館の建つ区画へと足を向けた。
正門前より、さらに小ぶりな橋を渡る。
王都風の漆喰壁。端正な印象の二階建ての迎賓館が二棟並ぶ。
とりとめなくお喋りをしながらここまで来たが、アクアはあれ以来、うんともすんとも言わない。じっと目を瞑っているので、とことん気配を消す作戦らしい。
(魔王って……そんな、おそろしい存在がひょいひょい人里へ。しかも魔族領への守りの要であるアクアジェイルの中枢に入れるわけが)
「アイリス嬢。どうなさいます? 来賓の令嬢のお加減伺いは。それでしたらこちらの、右側の棟ですが」
「? 左にもお客様がいらっしゃるのですか? 王都からの随行員のかた、そんなに大勢だったのかしら」
「あ、いいえ。そうではなく」
思索を途中で途切らせたアイリスが、不思議そうに小首を傾げる。
キキョウは「失礼」と断ると、わずかに身を屈めて顔を寄せた。
「――街では極秘ですが。王都からの客人を迎える少し前から、左の棟には別の来賓を迎えているそうです。魔族領から」
「!」
では、その姫君のご様子を訊いて参りますね、と手のなかの猫をアイリスへと返したキキョウは、普段通りのそつの無さで右側の館へと入っていった。
《…………ぐう。僕は、寝てるんだからね。ななな何も視えないし、感じたりしてないんだからね!》
「……すごく、あなたに何が視えてるのか。わたくしも見てみたくなったわ」
《やめときなって!!》
器用にも狸寝入りしながらのキレッキレの応答に、アイリス自身、滅多になく好奇心を刺激される。
そんな自分たちを、反対側――――左の棟の二階の窓辺で、頬杖をつきながら見下ろす少年がいるのを、もちろんアイリスは知る由もなかった。
少年は薄闇色の肌に赤い瞳。黒い髪。
一見しただけでゼローナ人ではないとわかる風貌。注意深く見れば、とても整った美貌の持ち主と気づく不思議な存在感。
少年は、ふうん、と呟いた。
「めずらしいな、あの姫。氷の幻獣と契約してる」