69 本当のアイリス、本当のルピナス
「ただいま、アイリス」
快晴。公邸の最奥、離れの塔の三階。白々と朝日が差し込むアイリスの私的な客間に、心持ち頬を緩ませた双子の弟が入室する。
少しだけ痩せたかもしれない。およそ一ヶ月ぶりの帰還だった。
「おかえりなさい、ルピナス……!」
立ったまま、そわそわと待ちあぐねていたアイリスは猫を抱いたまま、扉まで足早に駆け寄る。
すっかり快復したらしい姉の様子に、ルピナスはいっそう破顔した。
「アクアも久しぶり。ちゃんと、いい子にしてたか?」
「んにゃうーっ」
《もちろ…………って。ちょ、会うなりそれぇ? やめてよ、弟~っ》
「あらあら」
ずいぶんと嬉しそうなルピナスに、ふにふにと髭の付け根あたりを押され、アクアはいかにも猫らしい鳴き声を返した。
“心話”で彼の困り具合を察したアイリスは、それとなく身を翻す。
腕のなかの柔らかな体は、《やれやれ》と力を抜いていた。
めっ、と弟を流し見る。
「だめでしょ。アクアがいやがってる」
「え? そうなの?」
そうよ、と返して耳の生え際や顎の下を撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らすミルク色の綺麗な毛並み――アクアは、厳密には猫ではない。
あの日、いちどだけ見た。
本来の姿は有翼の猫だった。
光を閉じこめたような乳白色の体毛に、同色の翼。紺の瞳。額に紫の“核石”を戴く不思議な生きもの。
アクアは、幻獣だ。
ひとたび他者と契約すれば現身も得られるようだが、元は神秘の存在である彼らにとって、ふつうの猫を装うのは時おり、窮屈そうだった。
「――さ、座って。お互いにたくさん話さなければいけないわ。とくに、あなたは」
アイリスは、にこりと男子の装束に戻ったルピナスに笑いかけた。
* * *
小型竜の知らせから、きっちり二週間。
まだアイリスのふりを続けていたルピナスが、王都からの客人がたを連れて戻ったのはきのう、日没前だった。
そのとき、アイリスは母からのお達しもあったため、塔に閉じこもっていた。ルピナスも一晩ゆっくり休むよう厳命されて今朝に至る。
当面、自分たちはこの一ヶ月の入れ替わり期間について、互いに起きた出来事を伝え合わなければならない。
極力ひとと関わらないように過ごしたアイリスに比べ、ルピナスの情報量は膨大だった。
そうして二時間たっぷり。
ほぼ聞き手側に回っていたアイリスは、こわごわと息を吐く。心の準備はしていたものの、やはり、あまりの波乱万丈ぶりに驚かされた。
(……まさか、サジェス殿下以外の王子様がたとも仲良くなって、お忍びで城下に降りて。そこで王女様が誘拐されてしまうだなんて……)
あらましを理解するのは大変だったが、居合わせたルピナスはもっと大変だったろう。
非常事態だからと、自分から正体を明かしたのも頷ける。――彼の性格上、ふつうの令嬢のようにただ城で待てと言われても、苦痛しかなかったはずだから。
アイリスは、まじまじと弟を眺めた。
「いろいろ、あったのね……」
「うん。じっさいに事件を解決したのは三人の王子殿下だけど。彼女たちが無事でいてくれて、本当によかったよ」
侍女が淹れてくれたお茶で人心地つき、ルピナスが頬杖をつく。救出の瞬間を思い出してか、遠い目になったあとは一時、複雑そうな苦笑をしていた。
彼女たち――今回の客人のうち二名は、そのとき同行した令嬢だという。
すなわち、北のジェイド家と並び立つ東のエスト家と、南のカリスト家。ゼローナ三公家の令嬢が一堂に会するのは、じつは、当代では初めてだった。
じわじわと心配が込み上げて、アイリスが心細そうに眉を寄せる。
「どうしましょう。緊張してきたわ」
「なんで? ……あぁ、このあと面談を申し込まれてたっけ。弟君がいると、さすがに行儀いいよね。サジェス殿下も」
「殿下はいいの。たぶん、第三王子のアストラッド殿下とも。ふつうにお話できると思うわ。でも、同年代の女の子はわたくし、ええと……ろくに話せた試しがなくて」
「……………………ふっ」
「! ひどいわ、笑った!??」
「あははははっ! そりゃあ笑うよ、アイリス。……っくく、可笑しい。だめだ。やっぱり姉上殿は面白いです」
「………どうも……?」
解せない。
けれど、王都ではよほど息が詰まっていたのか、いまようやく肩の荷が下りたと言わんばかりにひぃひぃ笑う弟に、理不尽だが怒る気も失せてしまう。
少し、ふてくされて紅茶の器を手にとったとき。ふと、真摯に見つめられた。
「いい子たちだよ。大丈夫。友達になれると思う」
「ルピナス」
そっくり同じ、夜色の瞳に労るようなやさしさを感じて、アイリスは目をみはった。
それから、いたたまれずに器に口を付ける。
もじもじと視線を逸らす姉に、ルピナスはお日様のように笑った。
「世の中、意地悪な令嬢ばかりでもないって――あ、どんな令嬢が夜会に来てたとかはさ、サジェス殿下に直接聞いてね。私は参加してないから」
「!!!」
ぼっ、と、頬が赤らんだのを見とがめられた気がして、軽く睨み付けてももう遅い。
そろそろ時間じゃない? 行こうか、と立ち上がって手を差し出したルピナスは、圧巻の北公子息ぶりだった。