62 お見通し
あまり褒められた習慣でもないが、サジェスがこの部屋に夜の散歩――もとい、“転移”の能力を使ってやって来るとき。
アイリスはたいてい就寝している。
それで、いつも気づくのが遅くなる。
これまで昼間に『お忍び訪問』を受けることは滅多になかった。その法則が崩れたのは昨年、母や弟の目の前で公然と求婚されたあとから。
基本的に、彼が自分の元に翔んでくるとすれば真夜中だった。
――――その宵も。
《マスター起きて。あいつが来る》
「んん……だれ? あいつって」
寝台に潜り込んで数刻。いくらかぐっすり寝入っていた。
ぬくぬくと夢見心地で尋ねると、愛猫と化したアクアが、しなやかな尾をくねらせて羽布団から出てゆくところだった。ぽっかりと空いた隙間に首もとがすうすうする。
目覚ましがわりにミルク色の尻尾で頬を撫でられ、ぼんやりと瞳を凝らすと、寝室の中央に馴染み深い青年の輪郭が見えた。
(!!)
アイリスは一気に覚醒した。
「サジェス殿下? いらしたのですか」
「めずらしいな。起きていた? たったいま来たばっかりなのに」
「ええと……。いえ、眠ってはいましたが」
察するに『こんばんは』とも『おはよう』とも言いづらい時刻。サジェスはふだん通り、あらゆる挨拶をすっ飛ばす。
その奔放さに、アイリスは布団に埋もれながらこっそり笑んだ。
――本当は、慣れてはいけないのだけど。
「ちょうど、アクアが起こしてくれました。心話で」
「しんわ?」
魔法の光球を浮かべたサジェスが寝台に近づくと、猫が足元にまとわりついた。
仕方ないな、とこぼして片手に抱き上げる。
何だかんだ言って王子に懐いているらしいアクアは、愉しげに喉を鳴らしていた。
アイリスは、仲のよい二人(?)にほっこりする。
「いわゆる『こころの会話』ですわ。彼は、わたくしの心に直接話しかけてくれますから。同じように、わたくしの心も読みます」
「あぁ……、なるほど。そういえばお前、アイリスとは意思の疎通ができていたな。あのときからか?」
「にゃ」
控えめな声でアクアは鳴いた。時間帯を配慮してのことだろう。
それから、魔法の灯火を受けて金をまぶしたような紫紺の瞳をこちらに向ける。
《どうする? ぼく、出ていこうか》
(やめて、だめ。絶対にここに居て)
《…………ふうん?》
いかにも気を利かせた風のアクアに直球で訊かれ、アイリスはすぐさま引き止めた。もちろん心話でのやり取りだ。
彼の申し出に内心は焦ったが、表情には出していない――、はず。
何しろ求婚してからというもの、サジェスの手の早さが尋常ではない。息をするように触れられている。
ただでさえ深夜。
寝室でほぼ二人きり。
未婚の男女にあるまじきこの状況を、これ以上深刻化させるのは良くない。
これは、いずれ至尊の君となる、彼のためでもある。
そんなことを悶々と考えていると、ふいに申し訳なさそうに話しかけられた。
「…………アイリス? すまない。ちょっと話がしたいんだが。体はどうだ?」
「あっ、はい。大丈夫です。殿下が前にお見えになった次の日には床上げを。少しずつ動けるようになっていますから。どうぞ」
「ありがとう」
ぽんぽん、と布団から右手を出して上掛けを叩く。見舞いや診察用の椅子は片付けられていたためだ。
サジェスは、ちょっと躊躇を見せつつ嬉しそうに寝台の端に腰かけた。番人よろしくアクアがアイリスの元に戻ってくる。
丸くなったアクアに頬を寄せ、無意識で撫でていると、サジェスに微妙な表情をされた。
「役得だなアクア」
《いいでしょー》
「! ふっ」
気品ある佇まいの美猫がそんな風に告げるのが可笑しく、アイリスは思わず吹き出す。
くすくすと笑っていると、サジェスはまぶしそうに目を細め、通訳は求めなかった。
* * *
「ルピナス? ええ。ぶじに七日前、出発しました。何か?」
「いや。それならいいんだ」
こそこそと会話。
以前のように、急に侍女が見廻りに来ることもある。それで、少しずつ距離が近づいている気はするが、おおむね問題のない密談の体となっていた。
曰く、北部の令嬢がたはすでに王都に到着しており、残すはルピナスだけ。
峠を治めるエヴァンス伯爵領よりも北を慣例として『北部』というが、茶会に参加する未成年令嬢は0。夜会にはグレアルド一門の令嬢たちだけが参加するという。それもまた不自然な話で。
「事故というわけではないのですね。事前に辞退の旨が?」
「そうなる。根回しか、他家への水面下の圧力かはわからんが、凄まじい影響力だよ。グレアルド侯爵家の当主はいったい、何を考えてるのか……」
アイリスは、そこではっとする。
「だから、ルピナスの安否を気遣われたのですね」
「あぁ。日にちをずらして、遅めにしたのは正解だな。さすがはイゾルデ殿。――北部では、先に起きた年明けの事件がかなり有名だ。君が王都に来られるとは、向こうも思わなかったんだろう」
「……ルピナスが、心配です。到着してから……その、何かされないか」
「アイリス」
肩からショールを羽織り、体を起こしていた。
あの日、向けられた憎悪や罵り言葉をうっすらと思い返し、俯いて縮こまる。
――――と、抱き寄せられた。
「! 殿下?」
「守る。ちゃんと、今度こそ必ず。約束しよう」
「…………はい」
少し、震えていたらしい。大きな手に背中を撫でられ、甘えるように肩口にすり寄ってしまった。
カーテンを閉めた窓の縁が、しらじらと染まる。そこはかとない朝の気配。気の早い小鳥のさえずりも。
(まだ……もう少し、夜なら良かったのに)
「夜が短いな」
「えっ…………あ」
どきどきと胸を打つ鼓動は甘いばかりで、うまく遮られなかった。掠めるような口づけを落とされる。
――約束する。俺は、ルピナスを守るし、君以外の令嬢には寄り付かない。
大茶会と大夜会が終わって、一仕事したらまた求婚に来るよ、と。
(~~!! もう、う……!)
ささやかれた耳を押さえながら視線を上げると、すでに王子は転移していた。
やきもきとさざ波が立つ己の胸だけを持て余し、傍らにいるはずのアクアに視線を落とす。
アクアはとてもお利口さんに、完全に猫の姿態で、やすらかに寝息を立てていた。




