61 静かなるイゾルデ
ちょっと短いですが、閑話的な感じでどうぞ。
中庭を移動中。
ふと、背後からめずらしい声で呼ばれた。
「お母さ……、母上!」
「アイリス? どうしました。そんなに慌てて」
はぁ、はぁと、アイリスの細い肩が上下している。
イゾルデは近侍の事務官にちらりと目配せをすると、先に官舎へと向かわせた。
アイリスは塔に続く径からではなく、本館から出てきた。どうやら探されていたらしい。
振り返り、雪が融けて乾いた敷石の上を少し戻る。体の前で手を組み、彼女を見守った。
たどり着いたアイリスは胸に手を当て、懸命に息を整えていた。
「あの」
「何かしら?」
「お忙しいところをすみません。お仕事中にお呼び止めしてしまって……。先ほど、新しいサロンを使わせていただきました。とても素敵でした。ありがとうございます」
「いいのよ。気に入って?」
「はい」
――嬉しそうなアイリスが、仄かに微笑む。
はにかむ笑顔が初々しい。雪割草のようだ。
そう、と呟いたイゾルデは、藍色の睫毛を伏せるように瞳を細めた。
母子三人。似てはいるが、アイリスは自分ともルピナスとも違う。
どこもかしこも繊細なつくりの彼女は、社交ができる年齢になったとはいえ、まだまだ無垢さが漂う。
反面、今日床上げしたばかりのはずなのに、礼を言うためだけに駆けてきたのかと思うと、その義理堅さが頼もしく映った。
若々しさが愛しくまぶしい。自然と口角が上がる。
「――気に入ったのならば良かった。歩けるかしら。官舎の手前までですが、よかったら一緒に来ますか?」
「!! はい……!」
アイリスはいちだんと瞳を輝かせる。
イゾルデは、ゆっくりと次なる仕事場へと向かった。
* * *
早春の北都は雪がないだけで、まだまだ寒い。
時折り、つめたい風が吹きつけるたびに娘の体を案じてはらはらしたが、当のアイリスは久々の庭歩きを楽しんでいるようだった。とりあえず、ほっとする。
官舎の区画に出ると、ちらほらとお仕着せの官が二人に気づき、脇に退いて会釈していた。そんな一帯を通りすぎたとき、ふいに小声で訊かれた。
「母上。その……、わたくしが倒れるに至った件で、何か未解決なことはありますか? ポーラ嬢以外で誰かが罪に問われるようなことは」
「あら。情報源はルピナスかしら」
「ええと」
しまった、と目を丸くするアイリスに、イゾルデは声をたてて笑った。「大丈夫よ。叱りはしないわ」
「! よかった。では」
ぱぁっと娘の顔がほころぶ。
イゾルデは意味深な笑みを浮かべた。
「ええ。事件があったカフェ“フェリーチェ”はグレアルド商会のものでしたね。務めていた者も、全員がグレアルド家の使用人でした。
あなたは知らないでしょうが、あの日は、彼らがひどく非協力的で……その線から、いろいろと人を遣って探っていたのよ。べつに、報復というわけではないわ」
しれっとおだやかな口ぶりではあったが、アイリスは聞き逃さなかった。おだやかではない単語があった。
「母上。わたくし『未解決の何か』とはお聞きしましたが、『報復』とは」
「失礼。本音が出たわ」
「!? 母上っ」
ぎょっとするアイリスに、イゾルデは『ここまでね』の意味で、人差し指をみずからの唇に当てる。
その仕草と官舎の入り口に到着したことで、アイリスも会談の終わりを察したようだった。
「――わかりましたわ。お時間を頂戴して申し訳ありません。ありがとうごさいます」
「いいのよ。気をつけて戻りなさい」
「はい」
うつくしい礼をして、慎ましく去る背中を見送る。
アイリスは、昨日からすれば格段に快復したようだった。顔色も悪くなく、ちょっと痩せてしまったのが気になるだけ。少しずつ体を動かすことで、じきに年明け頃の彼女に戻るだろう。けれど。
(……――見てなさい。必ず尻尾をつかんでやるわ。もう二度とうちの娘に手出しをさせない。あの、不正づくめの青二才ども)
「! お、お疲れさまです閣下」
「ええ。ご苦労様」
たまたま、青い炎を揺らがせるように内なる怒りをたぎらせていたイゾルデに、そばで巡回中だった兵士がぴしりと敬礼を送る。女将軍はさらりとそれを労った。
「「「(怖 ッ え ぇ ぇ !!!!)」」」
瞬時に辺りの人員に緊張が走る。
今日も、北公領官舎の人びとは峻厳たる雪嶺のごとき麗しき公爵を戴いて、一糸乱れぬ働きぶりを見せる。
ジェイド公爵イゾルデが『社交要らずの鬼将軍』と呼ばれる所以が、ここにあった。