59 二人のアイリス(後)
移動した先の塔の二階は、ずいぶんと様変わりしていた。
寝込む前にはなかったはずの両びらきの扉を開けられ、アイリスは戸惑うように立ち止まる。
――そういえば最近、階下でひとの出入りが多いなとは感じていた。ちょっとした作業の物音も。
てっきり修理か何かだと勘違いしていたが、まさか、フロアを丸ごと改装していたとは。
「どうしたの? ここ。前まではもっと殺風景だったわ。古い本棚もいっぱいあって書庫みたいな……あ、惜しんでるわけじゃないのよ」
古い本――数代前の当主の蔵書は手に取ったことはあるが、堅苦しすぎてあまり没入できなかった。慌てて強調する。
侍女長は、そんなアイリスにふわりと微笑んだ。
「書物はべつの場所に移しました。改装は、公爵様のご命令です」
「母上の?」
「ええ」
どうぞ、と促され、足を踏み入れる。
暖かな火が入れられた暖炉まわりは小綺麗な彫刻をほどこした白っぽい石造りのものに変わり、ふかふかとした真新しい絨毯は落ち着いた深緑。
窓のない側の壁には春の野山を描いたタペストリーが飾られ、中央奥には薔薇模様のソファーセット。ローテーブルも白い石材でできており、洗練された空間になっている。
極めつけは、それこそ一般的なサロンのように奏者用のスペースが設けられ、ピアノまで置かれていることだろうか。徹底している。
アイリスは後ろのルピナスを振り返った。
「あなたは知っていて?」
「うん。母上から、社交を頑張ってたアイリスにプレゼントだよ。去年のうちにいろいろ発注してたみたい。そのうち、招かれるだけじゃない、自分でも茶会を主催することがあるだろうって。な? アクア」
「にゃあ」
「あら」
ちゃっかりルピナスの腕に収まったアクアにびっくりしつつ、視線を前に戻す。
先導をしてくれた侍女長は、にこりと微笑んだ。
「ブリザードの少し前に家具類の搬入は済んでおりましたから。改装は、ここ二週間ほど。それから私どもで手入れをさせていただきました。いかがです?」
「すごい。すばらしいわ。うれしい……! ありがとう、侍女長。みんな。母上にも、あとで必ずお礼を申し上げに行きます」
「ふふふっ。元気になられたようで、ようございました。さあお嬢様がた。どうぞお好きな席にお掛けくださいませ」
「あ、あぁ」
そうか、そういえば模擬茶会がどうのと言ってたっけ、と、ルピナスがげんなりする。
生けられた花の香りが心地よい席に、アイリスは、にこにことその手を引っ張っていった。
* * *
ルピナスの茶席での行儀作法に問題はなかった。
いささか女性らしさに欠けるきらいはあるものの、むしろ面倒なので率先して女騎士見習いであることを周知するという。
大胆だが、そう考えれば彼――もとい『彼女』も慣れない演技をする必要はない。性を偽るだけで大変なのだ。
少しでも楽に過ごせるなら、それに越したことはないだろう。
アイリスは、ほんのりと困ったように笑んだ。
「ごめんなさいね。わたくしが不甲斐ないばかりに、あなたに迷惑を」
「いいや? アイリスのせいじゃないだろう。どう考えても向こうが悪い」
「向こう」
「ルシエラ・グレアルド嬢と、その一派だよ」
「! ルピナスっ。そんな、はっきり……」
「言うよ。これくらい、邸じゃみんな知ってる。あいつらが最初からアイリスを害するつもりで茶会を仕組んだって、騎士団じゃもっぱらの噂だし」
「えっ。でも」
――――あの日。
ポーラと二人きりになってからの記憶は、幸か不幸か定かではない。
取り巻き令嬢たちに囲まれたときも、彼女がどこに居たかは覚えていなかった。
それに、使用された“氷狼の爪”はごく微量で弱毒性と聞く。
冷静に考えて、百歩譲ってたちの悪い嫌がらせ。あんな事態になるとは、誰も予想が付かなかったはずだ。
そう伝えると、ルピナスは呆れたように肩をすくめた。
「い・い・か・い? アイリス。きみが元々体が弱いってことは、北部貴族なら誰でも知ってる。弱ったひとに毒を与えればどうなるかぐらい、ちょっと考えればわかるだろ。悪いものは悪い」
「それは……」
正論。
まさにその通り。
この場合、彼女たちの弁護をするのにもっともふさわしくないのが自分だと気づき、アイリスは口をつぐんだ。
おそるおそる、疑問だけを呟く。
「母上はなにか……報復を考えていらっしゃるのかしら」
「さぁ? その辺は、私も教えてもらえなかった。でも」
「うん?」
気分的な癒しを欲したのか、ルピナスが隣のアクアを抱き上げ、膝に乗せている。
アクアは半分寝ていたらしく、くたっとした体を撫でられ、また、しずかに目を閉じた。
気を利かせた侍女長が二杯目の紅茶を淹れる音だけが室内に響く。
ルピナスは、心持ち声を低めた。
「母上は、エヴァンス伯に要請してグレアルド邸を探ってる。殿下も何か企んでる。あのひとたち、やばいよ。将軍とか次期国王ってだけじゃない。ぜったい、怒らせちゃいけないタイプの人間だ」
《……同感んー……》
「!?」
ふいうちで心に届くアクアの思念波に、ぎょっとする。
……幻獣である彼ですらそう思うって、どんな!?
そわそわと居たたまれなくなるアイリスに、人生の大先輩たる侍女長がコトリ、と紅茶を差し出した。「あ、ありがとう」
「いえいえ。若様、お嬢様?」
「なに?」
「お二人があのかたがたを恐れる必要はないと存じますわ。だって、片方は血を分けたお母君でいらっしゃいますし。もうお一方も、いずれ家族にと、ずっと望まれているのですから」
「ははぁ、なるほど」
「じっ! 侍女長……!?!? どこでそんなっ」
「いまさらです」
――ゆるく立ち上る湯気に爽やかな紅茶の香り。
アイリスの叫びと悶える赤面で、あたらしいサロンの模擬茶会は無事、お開きとなった。
かよわいのか、たくましいのか。判断つきかねるアイリスさんでした。
(次回、王子のターンを予定しています)