57 受難のルピナス
北都アクアジェイルから南の王都までは、馬車で十日間かかる。それはたおやかな貴族の令嬢基準であり、旅慣れた者や軍の従事者はその限りではない。およそ七日もあれば辿り着けるのだが。
「――もちろん、貴女の場合も前者の日程で予定を組んでいました。第三王子殿下の生誕祝いでもある一斉茶会と夜会は四の月の八日。これに間に合うよう、予備日数も含めて」
「存じ上げています、母上」
* * *
侍医の診察結果はすみやかに公爵に報告され、その日の夜に家族会議となった。
場所は、まだ寝台とお友だち状態のアイリスの寝室。参加者は議長であり家長のイゾルデ・ジェィド。長子ルピナス。当事者アイリス。それに――
「失礼。アイリスの滞在先は、すぐに王城でいいと采配していた。いつ来てもいい。むしろ、ずっと居てもいい」
「…………ちょっと待て。何で、貴方がここにいるんです?」
「愚問だな、ルピナス」
夜の八時。
外は晧々と月明かり。三の月半ばを過ぎて、ゼローナ北部一帯はようやくの雪融けを迎えていた。
とはいえ、場所によってはまだまだ根雪が残っている。
高所の峠道や関所を有するエヴァンス伯爵領もその一つ。どかした雪がうず高く積まれ、小山のように点在するさまが名物でもある彼の地では、いまの時期だとちょうど商隊が渋滞しやすい。往来の難所と北に住まう民の全員が認識している。
よほどの用事でなければ、移動の時期はずらすのが定石だった。
――――そもそも、この王太子が暇なわけがない。普段の業務に加え、例の一斉茶会・夜会の総責任者にも任ぜられているのだから。
げんなりと問うルピナスに、サジェスは大真面目に答えた。
「ここが俺の第二の実家だからだ」
「!? 理由になってないでしょ。どうして、我が家の重大事案が持ち上がるたび、折よく北都に“翔んで”来られるんです」
「それはだな」
「……っ……」
ちらり、と甘さと鋭さの同居する紫の瞳に射すくめられ、アイリスは頬を染めた。
きゅっ、と上掛けのシーツを握る。
背に大きなクッションを幾つもかさね、ゆるやかに半身を起こしている。傍らには猫のアクア。もはや心で会話ができる友人と化した彼に、アイリスはこっそり訊いてみた。
(アクア。あなたひょっとして、また殿下のところまで、幻獣のからだで行った?)
《行ったよマスター。あの王子は、幻獣体のぼくも視認できる。行くだけで察してくれるのも見どころあるし、面白そうだったからね》
(何てこと。もう……っ、とびきりお忙しいかたなのに)
それでなくとも『転移』の能力を抱えるゼローナ王室では、本来私事での空間移動を戒められているという。
昨年の夏、デビュタントの夜に突然お忍びで来たときもそうだったが、当然国王陛下のお叱りはあったはず。
サジェスの立場的にも良くないのでは……と、常々案じていた。
なのに、わざわざ手引きする身内がいたなんて。
軽くうなだれるアイリスに、サジェスは丸テーブルに設えた席を立って近づいた。寝台の枕元にある椅子に移動し、しれっと部屋の主を窺う。
「アイリス? 具合が?」
「いっ、いえ、大丈夫です。ご心配なく」
「そうか」
訳知り顔で頷いたサジェスは、おいでアクア、と名を呼び、四肢が少しグレーがかった乳白色の猫をひょいと連れ去る。膝の上で撫でながら、さりげなくアイリスの指をとってみずからの指に絡めていた。
「!!」
いっそう赤くなるアイリスに、あえて視線は流さないサジェス。
砂糖を吐きそうな表情になったルピナスはもはや突っ込む気になれず、イゾルデも淡々と頬杖をついた。
「では議題を戻すとして。アイリスの王城行きの件です。殿下?」
「ん」
「我が北公家では、此度の招集は、陛下による貴族諸侯の忠心を計る機会ともとらえています」
「まぁ、そうですね」
「よって、三公家の面子にこだわるならばアイリスの出席は必須。…………ですが、うちはうち。妾に叛意がないことなど、殿下も陛下がたもご存じでしょう。ただ」
「ただ?」
「「……」」
為政者としての色濃い二人にやや置き去りにされ、双子は黙って耳を傾けている。
――と、突拍子もなく母が息子を見つめた。
ぎくり、とルピナスの肩が跳ねる。
イゾルデは真顔で続けた。
「これが、諸侯の腹の探りあいとなれば話はまた別。先だって我が家は、かねてよりいけ好かなかった侯爵家から喧嘩を売られました」
「……母上。本音。本音がだだ漏れです」
「うん。それで?」
相変わらずアイリスの指を離さないサジェスが、にこやかに先を促す。
が、どうも話の先を完全に見越したような態度だった。いわゆる腹黒い。腹黒爽やか。
そんな胡散臭い笑顔と母親の本気に挟まれ、ますます追い詰められた面持ちのルピナス。
アイリスは、三者をはらはらと見守る。
すぅ、とイゾルデが深呼吸をした。なにかを決心したようだった。
「ルピナス。そなた、姉の身代わりをなさい」
「は?」
「えっ?」
「ですね。俺もそれがいいと思う」
「!?!? じ、冗談じゃないーーーーッ!!!」
示し合わせたような、絶妙な後押し。
王家側として知らぬ存ぜぬは突き通すが、個人的に最大限協力する、との太鼓判に、ルピナスの悲愴な叫びはもののみごとに通用しなかった。