56 戯れる猫
ごろん。
乳白色の毛並みがつややかな猫が一匹、アイリスの寝台で転がっている。
ぱたぱた。しゅっ。ごろん。
不規則な動きで彼を翻弄するのは、一本の猫じゃらしに似せた布製のおもちゃ。半身を起こしたアイリスが手に、巧みに操っている。
騎士団にも猫好きな先輩がいるらしく、事情を話したルピナスが、昨日もらってきてくれたのだ。『アクアが喜ぶんじゃないかな』と。
思惑通りアクアは夢中になり、紫がかった紺色の瞳をらんらんと輝かせて一心不乱に戯れている。
(いいな。こんなに自由に動けて)
つい、心で呟いた本音は苦もなく相手に伝わった。
《ごめんね。ぼくがあのとき、氷狼の力の残滓なんかを抑えきれなかったせいで》
「! いいえ、そんなこと。アクアのおかげであの程度で済んだのよ。そうじゃない?」
――あの程度。
店は完膚なきまで破壊してしまった。気持ちは痛んだが、死傷者がいなかったのは本当に良かった。
ポーラと二人っきりになったあのとき、アイリスはにわかに体が冷えて気分が悪くなり、震えていた。『毒、ようやく効いたみたいね』と微笑んだポーラは怖かったし、自分がどうなるかわからなかった。
そのあと戻ってきた令嬢たちも罵詈雑言を投げ掛けてきたが、正直、内容は覚えていない。
体の内側で未曾有の魔力が生まれ、むやみに出口を求めて暴れまわっていた。その感覚を制御しようと精一杯だったのだ。
「冷属性魔法……というのね。初めて知ったわ。ずっと、自分の体内で発動してたなんて」
《そう言うらしいね。幻獣たちは「凍気」と呼ぶけど》
「あなたはペンダントだったとき、それを吸収してくれていたのね?」
《うん。ぼくは氷の幻獣だから、凍気は糧なんだ》
仮説として、と前置いたルピナスはあの日、キキョウと一緒に話してくれた。広場の天幕で、母も侍医もサジェスも同席していた。
衰弱した父の治療にもあたっていた侍医曰く、自分たち父子の症状はとても似ているらしい。早晩、このままでは細々と長らえたとしても、結婚して出産をすれば一気に寿命を削り、命を落とすのは目に見えていたと話されたときは愕然とした。
うっすらと自覚があっただけ、余計に。
キキョウのフォローでは、魔力が勝手に冷属性を帯びる体質なのだろうと。
常に体の熱を奪う傾向にあり、冬はさらに顕著なため、毎年寝込んでいたのではとルピナスも反論する。いっそ、暖かい場所で過ごせばいいのでは、とも。
持論を展開しあうルピナスや侍医を傍らに、母は黙って聞き入り、サジェスとともに横たわる自分の手を握ってくれた。すぐに騎士団への采配のため、場を離れたが。
束の間、両手がそれぞれの温もりに包まれていたのを覚えている。
――すでに半分眠りかけていたあのとき。
アクアは、枕元で寄り添いながらせっせと魔力吸引にいそしんでいたという。
ペンダントだったころから「触れること」で直に吸いとっていたらしい。
《あれは、とっても良いものだったよー。先代魔王が作った忌々しい封印の鎖。皮肉にもアレの呪力のお陰で、ぼくはきみから栄養をもらえた。目覚められたからね》
ごろろん。
こうして会話(?)する間も、アクアはひたすら愛くるしく猫じゃらしと戯れている。
栄養扱いされたのは複雑だが、害はないし契約は結んでしまった。まぁいいか、と嘆息する。
ちゃっかりした子だな、と思いそうになって、アイリスは慌てて視線を窓の外に逸らした。
* * *
若干の心配はあったが、アクアの存在はすぐに周囲に受け入れられた。サジェスが、今度会ったときの土産にしようと用意していた――という一言で皆が納得するのも凄い。ふだんから自由だと、こんなときに妙な説得力がある。
それはさておき。
「……あなたが殿下からの賜りものというのは、嘘ではないものね」
うんうん、と空いた手を頬に当てて、アイリスはしみじみ頷いた。
アクアは猫キックをぴたりとやめ、お腹を天井に向けた状態で小首を傾げている。
《マスター、あの王子から求婚されてるね。くっつかないの?》
「!! くっつ……? えっ、殿下と??」
目をみひらいたアイリスが、どんどん赤くなってゆく。アクアは、あちゃー、と言わんばかりに夜色の瞳孔を細くした。
《ぼんやりと感じてたよ。マスターの心。すごく好きじゃん。王子のこと。「ケッコン」したいんでしょう?》
「だめ、言わないで!」
《え~~? 言わないけどさぁ》
猫じゃらしを放り出したアイリスにぎゅうぎゅうと抱きしめられ、アクアは迷惑そうな顔をした。
そこで、トントンと扉が叩かれ、午後の診察の時間ですよと侍女が侍医の来訪を告げる。
「はい」
居住まいを正したアイリスは、そぅっとアクアを膝に下ろした。(お願い。持って行っておいて)と囁き、アクア自身におもちゃを片付けさせる。
にゃー、と鳴いたアクアは猫じゃらしをくわえ、寝台から素直に降りた。次の間のソファーで丸くなり、猫のふりに徹するつもりだった。
――どうでしょう、先生。お嬢様は王都までの旅に耐えられそうでしょうか。
――それは……申し訳ありませんが、許可できませんぞ。何しろ、冬の間中ほぼ眠っておられたかたです。
体を起こせるようになったのが先週。当初の出立予定が十日後。残念ながら出席は辞退してくだされ。長い目で見れば、あのかたのためです。
――そうですか……。
《………………》
廊下から聞こえた会話に耳をそば立て、アクアはぱちりと片目を開ける。
(……まぁ、他人事だけど。何とかするんじゃないかな。あの王子のことだから)
それからおもむろに、くわぁ、と欠伸を一つ。本格的な昼寝の姿勢になった。