55 猫と自由な王太子 ☆
――どこかを融かしたら、多分、いっせいに崩れる。
そう言ったアクアは、ちょっとだけ考える仕草をした。ふわりと浮いてアイリスから離れ、重さのない羽ばたきをする。垂直上昇。
猫でありながら翼がある。
アクアは、その存在の不可思議さのまま、すうっと天井の氷柱にかさなるように消えてしまった。
「! アクア?」
《待っててマスター。契約したぼくは、きみを導星にどこにでも行ける。日没が近い。さっきから、外にたくさんの人間が来てるんだ。助けを呼んでくる》
「ありがとう……! お願いね」
《まかせて》
* * *
そうして、有翼の猫の言う通りにどんどん暗くなる室内でしずかに待っていた。
が、立っているだけでもきつい。
つめたさも寒さもとっくに限界を越えている。いわゆる気力だけで持たせていたが――
(っ……もう、むりかも)
さっきから悪寒が止まらない。目元が熱くて朦朧とする。歯の根が噛み合わず、みずから肩を抱いていたが、それも気休めだ。
どこか遠い場所のように隔てた外で、ざわざわとひとの気配がした。
来た……?
氷をどうにかすると建物が崩れると言っていた。
助けは、どうやって?
回らない頭で必死に考え、ポーラが突っ伏しているテーブルの脇へ来て、手を添えながらしゃがみ込む。
軽い吐き気に目を瞑ると、くらりと天地が傾いだ。
――座っていても立ち眩むなんて、久しぶり。
これ以上は体を支えていられない。
経験上、そのまま床に倒れてしまうと思った。そのときだった。
張り詰めた空気をほどく、明るい声が脳裡に響き渡った。
《たっだいまー、マスター。うってつけの人間を見つけたよ》
「……!!! アイリス、大丈夫か?」
「でん、か……?」
うすく目をひらく。さっと大きな手が視界を過り、抱きしめられた。この声。あたたかさ。忘れるはずがない。うそ。
「どうして? なぜここに」
「話はあとだ。とにかくこれを。ここを出るぞ」
言うなり自分のマントを剥ぎとって、ぐるぐるとアイリスを包んでしまう。あまつさえ横抱きにされかけ、アイリスは慌てて訴えた。
「お待ちを。ポーラ嬢もお連れください。ずっと意識がないのです。早く、温めて差し上げないと」
「ポーラ? ……あぁ、この令嬢か。わかった」
サジェスはさして感慨も見せず、ちらりとテーブル席を確認した。その隙にアイリスの肩と膝裏に腕を回し、ぴったり密着させるように抱く。それから天井付近に漂うアクアを見上げた。
「お前は? その姿だと、見える奴のほうが少ないだろう。説明も面倒だし、宝石には戻れんのか?」
《う~ん。そうだなぁ。じゃあ》
まるで目に見えない階段でも踏むように、アクアが宙から降りてくる。
やがてしゅるっと翼をしまうと、アイリスの胸の上に収まったときには、どう見てもふつうの猫だった。
「にゃあ」
「! 鳴いた」
瞳をみひらくアイリスに、やや得意気な思念が届く。
《鎖が壊れたから、あの形には戻れないけど。これっくらいできるよ。ちゃんと猫っぽいでしょう?》
「は、はい」
「何て?」
「ええと。彼と契約したとき、ペンダントの鎖が壊れたんです。だから、宝石には戻れないと。それで――」
「契約。そいつと? ちょっと待て。雄なのか」
《そうだよー》
「だ、そうです。…………殿下?」
「うん。まぁいい。猫だし。大丈夫、俺は心が広い男だ」
「はい……?」
《たいへんそうだねぇ、マスター》
やれやれと言わんばかりのアクアに曖昧に微笑み、そこで、アイリスの気力は尽きた。完全に脱力し、サジェスの肩口に顔を寄せる。意識だけは繋ぎ止めて。
「出るぞ」
「はい」
転移の瞬間は、周囲の空気が変わったことだけはわかった。
わあぁ……、と歓声が湧き、夜風を感じる。ぱちぱちと燃える篝火の音に人いきれ。騎士。それも見知った顔ばかり。
アイリスはそのなかで、イゾルデとルピナスの声を聞いた。
「心より……感謝申し上げます、殿下。よくぞ」
「! よかった。アイリス、生きてる……。ありがとう殿下!」
「こちらこそ、力になれて良かった。どうする? 直接公邸に飛ぶこともできるが」
「いいえ、ひとまずは天幕へ。侍医も控えておりますし、そちらのポーラ嬢の兄も来ております」
「わかった。アイリスはこのまま、俺が運ぼう」
「お願いします」
――――――
そうして、例年通りゼローナ北部一帯を猛吹雪が席巻する前に、事件はいったん解決した。
氷魔法を暴発してカフェ“フェリーチェ”を破壊したのはアイリスだが、きっかけはポーラ・ロードメリアが所持していた「氷狼の爪」と呼ばれる粉薬のせい。
それをアイリス用の紅茶を淹れるためのポットに仕込んだと、ポーラ本人が供述したためだ。
ほかにも危険な薬剤を所持していたポーラに関係者は驚きを隠せずにいたが、叔父のジオはこれを『ちょっと具合を悪くさせる薬』と言っていたらしい。
つまり、毒。
騎士団が調べたところ、たしかに致死量ではない。一度きりの分量。それも、絶妙にたちの悪い「風邪に似た症状」をもたらす程度の濃度ではあったが。
結果として、めったにない冷属性魔法の保持者だったアイリスの体は過敏に反応し、それまで小康状態を保っていたバランスを崩すほどの魔力を発現させてしまった――と。
当然のように罪はポーラ嬢に有りと判断され、彼女の身柄は神殿預かりに。
すでに服役中だったジオにも余罪が足され、ロードメリア男爵家は手痛い禊の連続といえた。
* * *
「でも、どうするんです? 殿下。春の一斉茶会と夜会。アイリスは、このままじゃきついですよ。グレアルド侯爵家だって。吹雪のどさくさで調査保留になってますが」
「あぁ。それはわかる。必ず手を打とう。夜会……は避けたほうがいいな。茶会にしろ。俺に考えがある」
「…………殿下。ひとの話聞いてました?」
「もちろんだ」
ブリザード荒れ狂う気候も外聞も何のその。
たびたび非公式に北都公邸に“翔んで”くるようになったサジェスは、アイリスの守護者と化したルピナスと、彼女の枕元でよく、そんな話をしていた。
それに夢うつつで耳を傾ける。
アイリスは、冬の間こんこんと寝つくはめになった。