53 氷の幻獣
――さむい。とても寒いわ。凍えてしまいそう。
肌も髪も、爪の先までつめたい。呼吸……? は、はたして出来ているんだろうか。
ただ、祈るように組んだ手のなかにだけ、わずかな温もりを感じる。
涙型の紫水晶。
それにともなう記憶を。大切に、一生守り通したい気持ちを。
――あのひとが、くれた。あのひとだけが触れてくれた。こわばる背中に。息をするだけで精一杯だった自分に。かけがえのない温もりを与えてくれた。生きるための意思を。
(サジェス殿下)
なのに、このまま絶えてしまうんだろうか。
せめてひとめ、会いたかった。
そう念じたとき、ふいに身を切られるように感じてしまった。
現実の痛みより、心が痛い。
声を出したい。――呼びたいのに、声にならない。
思考も果てのない眠気にさらわれそうになった。そのとき。
ぽうぅっ……と、目の前に灯りがともるように明るさを感じた。おそるおそる瞼をひらくと、指の隙間から漏れでる光。
不思議と、石は紫なのに光は蒼かった。まるで、夜明けの光を受けたアクア輝石のように。
そこで石が明滅を始めた。
同時に、頭のなかに柔らかい声が響いた。
《さむい?》
(!!)
幼いそれに、アイリスは一も二もなく飛び付いた。声ではなく、心で話してみる。
――寒いわ。しにそうよ。
《それは困るね。助けてほしい?》
――当たり前よ! ねえ、あなたは何? 石なの? それとも別のもの?
《うーん……両方かなぁ。じゃあ、契約しよう? 人間の姫。ぼくにぴったりな名前をつけて》
――? 名前……契約?? どういう……。
《『回路』を結ぶための儀式だよ。先のマスターはもういないみたいだし。寝てる間に随分“力”をすり減らされちゃったけど、こうして、きみのお陰で復活できた。さ、どうする? はやくしないと多分、しんじゃうよ。きみも。そっちの人間も》
(!!!! あっ……そうか! あのとき)
喋る石にもたらされたらしい、乳白色の闇にうっすらと辺りの様子が浮かぶ。
自分を中心に迸るように形成された氷の刃。
それは部屋を。いたるところを破壊し凍らせ、天井を突き破る巨大な氷柱にまで育っていた。
ポーラは奇跡的に無傷だった。
でも、テーブルの残骸に突っ伏してほぼ氷漬けになっている。
どくん! と心臓が跳ねた。
急がないと。死んでしまう……!!
すると、石の気配が苦笑めいたものに変化した。
《ついでに言わせてもらうと、きみの命のほうが早くに尽きる。弱いから》
――わかったわ。契約します。あなたに“名前”を付ければいいのね。見返りは何を?
《きみの魔力を》
――魔力。
そんなの、ないに等しいけれど。
ぶるり、と背が震えたような気がした。
もう幾ばくももたない。だめだ。限界が近い。本能で悟る。
気力を振り絞って声をあげた。
「あげるわ。いくらでも…………“アクア”!!」
《契約成立――改めて、よろしく。マスター》
「!?」
ぱんっ、と音をたてて鎖が弾ける。肌は傷つかなかった。キラキラと消えてしまう。
組んでいた手は離れざるを得なかった。
宝石ではなくなった。
石を起点にどんどん、何かが生まれる。かたちを結ぶ。それはしなやかな四本の脚。弧を描く尻尾。ぴん、と伸びた耳にひげ。あろうことか翼まで。
「猫……だったの、アクア!?!?」
にゃあ、とは言わずに、アクアは紫紺色の瞳をウィンクさせた。少年のような声音はやはり、頭のなかに直接届く。
《形は猫に近いけど。れっきとした、核石をもとに幻のからだを有する一族の一員だよ。石の魔力の質によって、獣の形は変わるんだ》
「魔族?」
《魔素に縛られる魔族なんかとは違う。幻獣族。聞いたことない?》
「あっ」
アイリスは腕のなかの乳白色の毛並みのあまりの手触りの良さに、ぼうっとしていたが、不機嫌そうな思念波とともに、その額にちょこんと埋もれたアメシストに意識を戻された。
とたんに、アクアがよりいっそう膨れっ面になる。
《だーかーらっ。紫水晶じゃないんだってば》
「ごめんなさい。殿下から聞いていたわ。そう……。あなたが」
《わかればいいよ》
ころっと態度を変えた猫、もといアクアは、ゴロゴロと喉を鳴らした。
とりあえずの氷漬けから解放されたアイリスは水浸しで、これはこれで確実に寝込んでしまうだろう。
それでもポーラの氷を融かしてもらい、ほっと一安心。だが、その青白い横顔に胸が痛む。
(まさか…………あんなに、憎まれていたなんて)
生理的な寒気ではない。精神的な恐怖。おそれ。
そのことに、高揚感でうやむやにしていた不調が一気に顕になる。許されるなら倒れてしまいたい。
だめだめ、と頭を振った。
「ねえアクア。この……建物全体の氷はどう? 融かさなきゃ出られないわ」
《いいの? ぼくが冷気を吸いとって、融かしても》
「どういうこと?」
重さはない。子猫に鷹ほどの立派な翼があるのに、抱きかかえるのは苦ではなかった。
その顔を覗き込んで首を傾げる。
きょとん、と猫は答えた。
《だって。いま、この建物ボロボロだよ。氷全体で何とか支えられてるのに。どこかを融かしたら、多分、いっせいに崩れる》
脱出まではもう少しお待ちを!