51 招かれた席で(前)
雪煙を散らし、街道を抜けてすっきりとした二頭立ての馬車が止まる。
「どう、どう」
ブルルッ、と鼻を鳴らす黒馬に声をかけ、ジェイド公爵家の下男は身軽に御者席を降りて後ろの馬車へと向かった。扉を開け、なかの人物が降りやすいようにタラップを設置する。「お待たせしました。お嬢様」
「ありがとう」
さら、と、眉の長さと顎の長さで切り揃えた藍色の髪が揺れ、可憐な顏にかかる。真っ白な帽子にコートをまとったアイリスは、にこ、と微笑んだ。そのあまりに純真無垢な様子に、長年公爵家に仕えた御者が心配そうに眉をひそめる。
「……本当に大丈夫ですか? お一人で」
「平気よ。そういう指定だし、長くとも一時間程度と聞いているわ。ほんの一杯お茶をいただいたら、お話して帰るだけだもの」
「ですが」
「じゃあ、一時間経って戻らなければ、お店まで直接迎えに来てくれる? うちの名前を出せば、そう邪険にはされないでしょうから」
「畏まりました」
顔馴染みの御者がようやく見せた納得の色に、アイリスはほっと吐息した。
「行ってきます」
ちらちらと降る粉雪に光をまぶすような笑顔で、公爵家の大事な大事な令嬢がタラップを降りる。小洒落た外観の貸し切りカフェ“フェリーチェ”へと向かう。
特徴のある赤い屋根のほとんどは雪に隠れ、それでも煙突からゆるく煙がのぼっていた。辺りには複数の蹄や足跡。――すでに、ほかの令嬢たちは揃っているもよう。
身分的に付き添うこともできない。
アイリスがごく普通に「招待された茶会に行ってきます。馬車の手配を」としか述べなかったこともあり、ジェイド公爵邸ではとくに騒ぎにもならなかった。
――あと三日もすれば崩れるだろう天候、明日にならなければ戻らない公爵イゾルデ。それに彼女の弟のルピナス。随伴する護衛騎士のキキョウ・エヴァンス。そのどれもが、謀ったように思えてならない。こんな、たかが下男の自分ですら。
(いちおう……。お嬢様はいったん帰らせるおつもりだったようだが。このまま待機しよう)
“フェリーチェ”のカフェ兼貸し出しサロンへとつづく雪道と公道のあいだは、馬車用にスペースを設けてある。
御者は寒さには文句一つこぼさず、馬車を端へと寄せておく。
馬の側に身を寄せて暖をとるため、持参の水筒から沸かしたての茶をカップに移し、ふうふうと湯気を飛ばした。
* * *
「ようこそ、アイリス様。お越しいただけて嬉しいわ」
「こちらこそ。お招きいただいてありがとうございます。ルシエラ様」
カララン、とドアに取りつけられたベルが牧歌的な音を奏で、手慣れた執事風の店員がアイリスからコートと帽子、手袋を受けとる。
“フェリーチェ”は、内観も外観と同じほど洗練され、けれども肩肘を張りすぎない、令嬢がたが好みそうな空間だった。高い天井。甘く華やかなボルドーと白、ピンクを基調とする小ぢんまりとしたサロン。クリーム色に花柄の壁紙。飾られた生花も行き届き、どこもかしこも可愛らしい。
広さから考えると、平屋の建物のほとんどは厨房や店員、業者らが行き交うバックヤードのようだった。
アイリスは素直に礼を交わし、招待主であるルシエラの案内で奥のテーブル席へと導かれた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、皆様。お邪魔いたします」
――――ここまでは作法どおり。問題なし。
アイリスは内心、どきどきと緊張している。
侍女たちや御者の手前、公邸ではなるべく落ち着いた態度を心がけていたものの、何かと鋭い家令にだけは片眉を上げられた。
かなり、怪訝そうだった。
(でも。止められはしなかった……ということは、社交としてはこなしておいたほうがいい相手、ということよね?)
お気を付けて。季節柄もございますし、手短で宜しいかと、と告げた家令の声を心で反芻し、そっと深呼吸。おまじないのように『平常心、平常心』と口に出さずに言い聞かせた。
それよりも。
(……何かしら? この匂い)
店内に入ったとたんに甘い香りが鼻についた。流行りなのかもしれないが、少し好きになれない。香水とも違うような――。
ぼんやりと考えつつ椅子に腰かけるアイリスを、ルシエラはじっと見つめていた。
視線に気づき、目が合う。
そっと尋ねられた。
「どうかなさいました? ひょっとして、今日はあまりお加減がよろしくなかったかしら」
「! いいえ、そんなことは。……ただ……」
「ただ?」
言葉を濁すアイリスを窺うように、ルシエラが小首を傾げる。
長方形のテーブルで、互いに正面の座席。
両側に二人ずつ、すでに到着していた令嬢らが澄まして掛けている。
ルシエラは手に布巾を添えて大ぶりなポットを構えており。さっそく茶器に傾けていた。
――紅茶にしては、ハーブティーのように濃い赤色。どうもそれが香りの元らしかった。
ううん、と迷ったように表情を曇らせたアイリスは率直に伝える。
「ごめんなさい。わたくし、その香りが少し……苦手なのかもしれません。どちらの茶葉ですか? 珍しい色ですし、いただくのは初めてかも。体質上、合わないものもあるので」
「まあ」
「――……ッ!!」
ざわ、と両側の少女たちが気色ばむ。アイリスはひやひやした。
でも、伝えたことは事実だ。海向こうの食材や遠い南方の果実は滋味がつよすぎて合わないものも多く、いちど無理して口にしたときは発疹が出て、ひどいことになった。
そこまで説明して、やっと令嬢連盟の怒りが鎮火する。アイリスは口のなかがカラカラになった。
(どこが、『夏の一件を反省』なの……? 全然そんなことなさそうよ??)
――困った。まだ、来たばかりなのに。
心持ちしょんぼりするアイリスに、唯一態度を変えなかったルシエラは年上の余裕でおっとりと微笑む。
「気になさらないで。誰にでも苦手はありますもの。お待ちください、ふふっ。ちゃんと、ふつうの茶葉もございます」
側に控えていた店の給仕の女性に合図を送り、ポットと淹れかけの紅茶を下げさせる。
一礼した女性が下がるのと入れ代わりに来たのは――
「! 貴女は。え、なぜ?」
「…………」
どこか、思い詰めた表情をしていた。
先日外出の折も出会った。男爵家となったロードメリア家の娘、ポーラだった。