5 昼下がりの鞘当て
ジェイド公爵家が保有する公邸面積は広い。
とにかく、だだっ広い。
端から端まで歩けば、ゆうに一時間はかかるのではないだろうか。(※試したことはない。が、小さいなりに森や菜園、薬草園もあるので、じっくり見て回れば丸一日はかかるはず)
そんななか、アイリスが暮らすのは正門から対局に位置する離れの塔。手前に母とルピナスが住まう本館。
中央には王族が滞在するための護りの塔や執政塔などが群をなし、使用人たちの居住区画と迎賓館が二つ。
森の向こうには北公領騎士団本部があり、これらすべてが城壁と呼ぶべき堅牢な壁に囲まれている。
なんと、北都の南西部五分の一を丸ごと占めるという。
都じたい、『アクア輝石』と呼ばれる北方特産の青い鉱石を切り出して積まれた街壁の内側にあり、公邸を中心に、市街地は扇状に区切られている。
昔、ここが『アクアジェイル公国』と呼ばれたころの公都拡張の名残と聞く。
――“黒々とした森と山脈を背にそびえる、夕映えのアクアジェイルは、まさに宝石の古都だ”と。
そう、幼いときの自分に語ってくれたサジェスは、今回、あえて騎士寮で寝泊まりしているとルピナスから聞いた。
(騎士寮……。ええと、国王名代とは)
相変わらず妙なところで自由だが、だからこそ年齢が近く、優秀な騎士でもあるキキョウが警護役に抜擢されたのだろう。
――――それにしても。
午前のうちに念入りに湯浴みさせられ、へとへとだったために昼前まで長椅子に横たわる羽目になった。
起きれば香油で髪を櫛られ、畏まったデザインの薄青のドレスに身を包み、鏡のなかではどんどん一人の深窓の令嬢が出来上がってゆく。
髪型は、ゼローナ北部では一般的な、左右に垂らした三つ編みを緩くたわませる形。今回はそれを後ろの高い位置にまとめ、残りを背に流している。
髪留めは真珠のピン。後頭部のリボンの先には極小の紅玉。
眉を整え、唇と頬に淡い紅。うっすらと白粉まではたかれ、睫毛にも何か塗られてしまった。
アイリスは鏡台を見つめ、怪訝そうに後ろの侍女に尋ねた。
「ねぇ。おめかしし過ぎじゃない?」
「そんなことはございません」
「母上のお達しなの?」
「それは何とも」
「だって変よ。これじゃ、まるでお見合いだわ」
「「「!!」」」
室内にいた侍女全員が、そろって息を飲む。
その反応に、さしものアイリスも眉をひそめた。
……まぁ、未成年なうえ、病がちな自分に見合いはないだろうが。
彼女たちの仕事ぶりに不満があるわけではない。ただ、私用と馴染みの王子に挨拶をするだけで、ここまでの装いは不要と思えた。
アイリスは、さらり、と優雅なドレープを描いて滑り落ちる肩の共布を揺らし、勝手に立ち上がった。
「着替えるわ」
「お、お待ちを。お嬢様!」
「そそそそうです。せっかくの私たちの楽し、ぅぐ、苦労が!!」
「……」
――――ねぇ。いま、絶対に『楽しみ』と言おうとしましたよね?
やれやれと頭を振りつつ、口の端を下げて衣装室に進み入ろうとする。
と、同時に扉を叩かれてしまった。
ハッと立ち止まる。
(! いけない。もう、そんな時間?)
侍女の一人がすかさず応対し、現れたのは、ある意味想定外の人物だった。
「まぁ」
「お久しぶりですアイリス嬢。お迎え、に……」
恭しい立礼から上半身を戻した彼は、言上を途切れさせ、不自然なほど瞬きを繰り返した。
ほら、やっぱりおかしかったのだ。
時すでに遅し。半ば諦めの境地で微笑み、挨拶のために向き直る。
「ごきげんよう。キキョウ様。お勤め中、わざわざのお迎えをいたみいります」
「い、いいえ。――はい。そんなことは」
めずらしく言葉に詰まっている。
気の毒に。王子警護の任を解かれて母に遣わされたらしい、青年騎士のキキョウ・エヴァンスがそこにいた。
* * *
「アイリス! 良かった、会えて。来てくれたんだな。今日は一段と綺麗だ」
迎賓館に赴くと、ちょうど会談を終えたサジェスがイゾルデに見送られ、外に出たところだった。鋭さの際立つ風貌を人懐こい、満面の笑みで和らがせている。
紅の髪もあざやかに、十八歳の成長過程にしてもう偉丈夫の片鱗を見せる第一王子は、日ごとまぶしさを増している。
アイリスも、つられてにっこりと微笑んだ。
「ごきげんよう、サジェス殿下。もったいないお言葉です」
「相変わらず他人行儀だな」
「他人ですもの。正確には、わたくしは未来の殿下の、忠実なる臣ですわ」
「おまけに、いつまで経ってもつれない……。イゾルデ殿? このあと会食まで、とくに予定は」
「ございませんね」
女性のわりに、研いだ刃物のような気迫のあるイゾルデが柔らかく口の端を上げる。
それはそれで見るものに注意喚起を促すのだが。
よし、と頷いたサジェスは、大股でアイリスに近寄ると、エスコートするようにその手をとった。
「しばし、涼めるような場所でご息女と語らいたいのだが、良いだろうか」
「もちろん。貴方様のお目付け役をお忘れでなければ、よろしいですよ」
「お目付け……? いたか? そんな奴」
きょろ、と辺りを見渡すサジェスに、アイリスを挟んで反対側の隣に立ったキキョウは、苦々しい顔で挙手した。
「私です、殿下。こう見えても公爵閣下並びに騎士団の面々、果てはルピナス殿にまで、今日の役目については念を押されております。ついでに母からも」
「大げさだなぁ」
「いえいえ、殿下なので」
なかなか噛み合わない二人だったが、これはこれで男同士の友情なのだろうか……と、ぼんやり眺めていたアイリスは、「では」と呟いた。
自分をエスコートするサジェスの左手を逆に、包み込むように両手で握った。そのまま、くいっと引っ張って人工水路の上流へと足を向ける。
「こちらへ。滝を模した流れを見られる、岩陰の四阿がございます。よろしければ……あの、キキョウ様にもお願いがありますので」
「…………うん?」
「喜んで。アイリス嬢」
「あらあら」
イゾルデが手にした扇で口元を隠し、くすくすと愉しげに笑っている。
やがて、ぱちん、と扇を閉じると、側仕えの侍女にてきぱきと指示を出した。
「殿下はさほど喉は渇いてらっしゃらないでしょうけど、この暑さですものね。――お前、氷室から氷を出して厨房へ。頃合いをみて、氷菓子など見繕って差し上げなさい」