42 双子協議
滞在時間わずか十分のサジェスの訪問は、もちろん秘密にすることにした。どうやら遂げられてしまったらしい目的が目的なので、母にも言いづらい。
――公にしても誰も益を被らない。
どころか、王家と北公家のスキャンダルにしかならない。(※またしても唇を奪われたことに慚愧の念に堪えない、身も世もなく布団を被って朝まで隠れていたいアイリスの見立て)
幸い池の周囲にひとは居なかったらしく、マントを受け取ったルピナスは、やれやれと頭を振る。
「もうさ、アイリス。さっさと婚約しなよ。殿下と」
「!! ルピナス……? な、何てこと。むりよ」
冬の午後、日差しのある時間帯は少ない。二人ともスケートを再開する気にはならず、そろって岸へと向かう。
ひょい、と段差のある淵に足をかけたルピナスは振り返り、苦もなく姉を引き上げた。
「――むりじゃない。最近のアイリスは元気だもの」
「元気って……」
「寝込まなくなったろう? そんなに咳も出てない。七日に一度は夜会で挨拶回りもこなしてる。今日はスケートまで滑れた。みんな、どれくらい喜んでるかわかる? ――去年からすれば、奇跡だよ! 平気平気。王太子妃なんか余裕で務まる」
「ええと……評価の基準が身内目線なのは嬉しいけれど。王太子妃『なんか』は、どうかと思うわ」
めっ、と不敬を諌めれば、大した反省の色もなく鼻で笑われた。
それ以降、辺りは稀に鳥の声。枝から落ちる雪の音。銀世界に染み入る、しん、とした気配だけ。
来た道を戻っている。
行き先については何も喋っていないが、このまま塔まで送り届けてくれるのだろう。
たしかに活動限界は近い。明日は筋肉痛の予感がした。
――“元気”。
言葉の意味を、アイリスはそっと反芻する。
* * *
例年、朝夕の冷え込みだけで気管が縮こまり、猛烈な咳の発作に悩まされた。ひどいときは息ができずに難儀し、ぼんやりと眠気が勝るつよい薬湯漬けの日々。なのに、今年はそれがない。
加えて、どんなに部屋を暖めても消えることがなかった、体の芯に溜まっていた寒気が和らいだ。
極端な話、熱が上がったとき以外は凍えるだけだった、過酷な『冬』とは違う気がする。
――暖冬なの? と尋ねれば、侍女からは「いつもと変わりませんよ」と不思議そうにされる始末。
今朝、定期診察に訪れた老侍医も首をひねっていた。快癒の原因はわからずじまいだと。
――――……けれど。
離れの塔への一直線。
曇る空を映して、いまは乳白色の壁がにぶく輝いている。
背の低い常緑樹と、雪と氷の華を咲かせた枯れ枝の木立を歩く。
アイリスは微かに、途方にくれたようにけぶる、白い溜め息をついた。
「あのね。わたくしの体って、お医者様も匙を投げるくらい、本当によくわからないの。だから、たかだか一冬持ち直したくらいで安心できないわ。それに、百歩譲ってわたくしが健康になれたとしても。サジェス殿下にはもっと社交的で、才気溢れるお妃様がいいと思うの。ご公務だって、そりゃあたくさんあるのよ?」
「ううん……。そういうものかなぁ」
帰り道も自然に二人、手を繋いでいる。
空を仰いだルピナスは、鼻先を掠める雪に瞳を凝らし、ふっ、と息を吹きかけた。
「じゃあさ。例の王城の夜会。それに出られたら、アイリスもちょっとは自信がつくって話だったよね。いわゆる淑女として」
「? そうね」
「よし。約束して。王城に行けたら一人前になれたと見なして、殿下と婚約するって。そのほうが手っ取り早い」
「え」
ぽかん、と口を開けたアイリスが足を止め、弟を見つめる。
「…………本気なの? やだ、呆れた。ひとの話を聞いていて?」
「ものすごく本気です姉上。ですから、どうぞご一考を」
す、と頭を垂れ、まるで他家の令息のように、きりりと一礼するルピナス。
それが妙に芝居がかってさまになっていたので、アイリスは思わず吹き出した。
「やあね……! こんなときばっかり弟風吹かせないで。ほぼ同時に産まれたくせに」
「それは知ったこっちゃないな。世の習いでは、私が弟って事実は未来永劫揺るがない」
くすくすと笑い合った二人は、塔の衛兵から和やかな会釈を受けて階段を登り、塔に入った。
お戻りなさいませ、と侍女たちから声をかけられるなか、アイリスはふと思い立ってルピナスを呼び止める。「待って」
「? なに」
「――さっきの。不公平ではないかしら。あなたは? 夜会で、すてきなかたとは出会えなかった?」
「論外。ないよ。正直、あんまり興味がない」
「…………? じゃあ、何に興味があるの」
「そりゃあ新米騎士見習いなので。はやく一人前の騎士になりたいってとこかな」
「!! そんな。そっち……?」
愕然とするアイリス。
あらあら、と、彼女から冬装束のコートや帽子、手袋を取りにかかった侍女たちが頬を緩める。
(男の子って、そういうものなのかしら)
ちょっと残念そうに眉を下げたアイリスは、仕方ないわねぇとぼやいた。
「……わかった。じゃあ、こうしましょう。いつか、あなたがとても大好きになれるかたと出会えたら教えて。応援するし、お友だちになりたいわ」
「えええ~」
「いいでしょう? そうしたら、さっきの約束だってわたくし、善処するわ」
「ずっる。それ、全力で守る気ないだろ。――あ、私はいい。このまま騎士団詰所まで行くから」
侍女からマントの預かりを申し出られ、ルピナスは丁重に断った。
アイリスは、きょとん、と見守る。
「そうなの? 今日はお休みではなくて?」
「んー、訓練は休みだけど。冬場は、見習いは魔力講義が多いんだ。私は母上に似て魔力が多くないから、教本には載ってないようなサポート魔法を実地で勉強しに」
「ふうん」
実地。
つまり、寮住まいで非番の先輩方に突進して、その場で教えを乞うのだろう。
相変わらずルピナスのたゆまぬ努力はまぶしい。迷いなく、まっしぐらだ。
「わかったわ。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うん」
ほのぼのと見送る藍色の括り髪。
伸び盛りの背が頼もしい。きっと、これからはどんどん目線も離れてゆくのだろう。
それは、彼の成長の証。
塔の一室は健やかさを取り戻したかに見えるあるじを迎え、まるで春に似た長閑さを醸した。
――――――――
後日。
たびたび、アイリスはこの日の出来事を振り返る。もしも約束を果たせていたら……。
あるいは、真にサジェスにふさわしい令嬢が現れたら??
自分は、宣言どおりに彼への想いだけを胸に、平穏に暮らせるだろうか、と。
まだ見ぬ未来。
その先に、ひとまずは別々に過ごさねばならぬ、それぞれの年末年始の宴を控えていた。