41 二人きりの氷上で ☆
(これは夢かな。夢に違いない――。痛いけど)
座り込んでしまったあとで、ここが氷の上なのだと実感した。それでも、立ち上がるよりもなお、こちらに近づくアイリスから目を離せない。
「殿下……、大丈夫ですか。お怪我は?」
たいそう心配そうに覗き込む夜色の瞳。透き通るように白い肌は思いのほか血色がよく、寒さでかえって可憐な薔薇を思わせた。さっきまで体を動かしていたせいだろう。上気した薄紅色の頬にどきり、とする。
大丈夫、と告げれば、時間を止めたくなるほどあでやかに微笑まれた。
儚げで遠慮がちな風情や仕草は変わらないが。
――こんなに、いのちの気配が濃い娘だったろうか……?
ぱち、と瞬いてから、とりあえずの関心事を口にする。
「アイリス、いつの間にスケートを? すごいな。俺もやっておけば良かった」
「え?」
きょとん、と聞き返すアイリスに、作為的なものは感じない。
さっき見た限りでは、彼女はルピナスに、むりに真冬の池まで連れてこられたように見えたのだが……。
サジェスもまた、首を傾げる。
「いま。君一人で滑ってたぞ」
「!? ほ、本当ですね。やだ、どうして」
「――夢中だったんじゃない? 人間ってそういうものらしいし。ほら、殿下。手を」
「ルピナス」
「あぁ、すまない」
きびきびとした行動は気遣い名人ながら、どこまでもそっけない。
すでに冬の外遊びの達人らしいルピナスは、氷上でも自然体に近かった。差し出された手を引き、たやすく長身のサジェスを起こしてみせる。
「ありがとう。さすが、うまいものだな」
「…………どうも」
面と向かって礼を言われると照れる性質なのか、ルピナスが、つん、と視線を逸らす。
さっきまでは、わかりやすく『一人で滑るアイリスが心配過ぎる』と、顔に出していたのに。
アイリスもルピナスも。
大切なものは隠しているようで、まったく隠せていない。
その素直さに、サジェスはくつくつと喉を震わせた。
「やっぱりいいなぁ、北都は。落ち着く」
「何なんですか、もう。何しにいらっしゃったんです。そんな薄着で」
辟易と顔をしかめたルピナスは、するりと防寒用のマントを脱いだ。それから、ぱぱっとサジェスの髪や肩に積もった雪を払い、頭から被せる。
「わぷっ」
「王太子殿下に風邪をひかれちゃ困ります。どうせ、公務の合間にこっそり“翔んで”来たんでしょう? 私は、凍えたくないからその辺を歩いてきます」
「ルピ……」
大きな瞳をみひらき、アイリスが弟を呼び止めようとする。
が、ルピナスはすぐに側の岸に上がった。すたすたと林に向かい、手前でくるりと振り返る。
「いーですか!!? 見回りがてら、です。五分程度ですからねッ!」
「すまん。恩に着る!」
「で、殿下?」
ありがたく珠玉の五分を授かったサジェスは、内側にふかふかの羊毛が仕込まれたマントを羽織り、すっ、と両手を広げた。
対面には戸惑うように立ち尽くすアイリス。
――――あ、これはもう見ないほうがいいな、と判断したルピナスは速やかに踵を返し、池の周囲をめぐる明るい雪林へと入って行った。
* * *
「手紙をありがとう。贈り物も。すごく嬉しかった。本当に、天にも昇る思いだった。両方、絶対、毎日身に着ける」
「それは……よかったです。光栄、です。でも、ほどほどで」
しんしん。しんしん。雪が降り積もる。
移動の時間さえ惜しんだサジェスによって、アイリスは氷上で立ったまま、抱きしめられている。
いちおう野外だ。
いつ、誰の目に止まってもおかしくはない。
しかも、見晴らしが良すぎる。
そのため一度は避けたのだが、「すまない。俺も寒いが――アイリス。君も凍えてしまうだろう」と言われては断れなかった。
自分はともかく、サジェスは、マントの下はふつうの屋内用の衣服なのだ。
お陰で、こちらの体温はどんどん上昇している。
恥ずかしくて顔を上げられないため、ひたすらサジェスの胸元に向かって返事をする。
――しんしん、しんしん。
視界の端では途切れず、いくつもの綿雪が舞い落ちる。
いったい何分経ったろうか。
(もう、四分ほど経ってしまった……?)
まだ、こうしていたい。
いまだけでいい。このひとに、こんな風に包まれていたい。
そんな我が儘に騒ぐ心を、懸命に宥める。
だめだめ。
このかたは……
内心の言葉とは裏腹に、ぴたり、と寄り添った。
きっと良い王になってくださる。自分だけの『殿下』ではないのだから。
(わたくしのような者にも、やさしく分け隔てない。それでいて務めをきちんとこなして、然るべき裁きや果断をなさる。王太子の重圧にも音を上げたりしない。尊敬すべきかただもの)
延々。滔々と。
「……アイリス?」
「! は、はい」
驚き、アイリスは我に返った。
雪につられて思考に耽っていた。
それを引き戻され、つい、視線を上げる。すると。
やさしく、切なく、甘やかな紫の瞳に、意識はあっという間に絡めとられた。
くるしくて、胸がきゅっとする。
「あ」
手袋をしていないサジェスの指がアイリスの頬に触れ、耳たぶから首筋を順になぞる。
ひやっとした感触に首をすくめたが、襟元から上手に引き出された鎖と紫水晶にびっくりしてしまい、次いで猛烈に慌てた。
「殿下? そっ……それは」
「嬉しいな。着けてくれてたんだ。ひょっとして毎日?」
「~~お教え、できません……!」
いやいや。
毎日どころか入浴以外は眠るときもです、なんて、たとえ事切れたって言えるわけがない。
耳まで赤く染めて口をひらかないアイリスに、サジェスはいっそう笑みを深めた。
「愛してるよ、アイリス。君だけが、好きだ」
「…………!!!!」
指に絡めた金鎖に、いとおしそうに唇で触れられた。
視線はずっとこちらに注いだまま。
口づけていい? と小声で訊かれ、かろうじてだめです、と答える。そのやり取りすら、ひどく秘密めいて甘い。
もう、どうしたらいいのか。
煩悶で溶けてしまいそうだった。
「あっ……あの…………や。だめって、申し上げましたのに」
「そうだっけ」
我関せず、と、王子は取り合わない。
啄むようなキスを目元に。こめかみに。頬に受けて、寒さなどどこかへ行ってしまった。
根負けしてまぶたを閉じれば。ふわり、と、唇をやわらかく塞がれる。
そうして、すぐに離れた。
「――元気そうで、本当に、よかった。風邪には気をつけて」
「…………はい。殿下も」
どきどきしつつ答えれば、耳元でくすり、と笑う気配。思いきり抱きすくめられる。
表情は見えないけれど、こぼれるような笑顔なのだと感じた。自然と力が抜ける。目を閉じてしまう。
(サジェス殿下はお日様みたい。いつも、いつもあたたかい)
また来る、と囁いたサジェスはちらりと林を一瞥すると、「これ、返しておいて」と言い残す。
やがてマントでぐるんぐるんにアイリスを包み込み、目隠しをしてから“転移”した。