39 姫と騎士との街歩き
その日の午前は結局、貴族名鑑と照らし合わせながらの求婚者のリストアップ作業に費やした。
ようやく写しも取り終えた昼前、ルピナスは視察帰りの母に「補助をなさい」と捕獲され、引っ張られて行った。
アイリスは一人、ぽつん、と取り残された。
何となく離れの塔に戻るのが億劫になり、本館のサロンで寛ぐこと少々。イゾルデ付きの侍女たちからは滅多に来ない『ちいさなお客様』として、歓待されすぎてこそばゆい。
もう立派な成人なのよ、と、クッションを抱えながらぼやいても笑い飛ばされるだけ。
彼女らは、みな快活で懐が深い。年齢層も中堅からベテランのため、つい、ぽろりと本音が漏れてしまう。
――……本当は。
「困ったわ。せっかく、今日はルピナスに街まで付き添ってもらおうと思ったのに」
「あら! お嬢様。それでしたら、キキョウ様をお呼びすれば良いのでは」
「え?」
長椅子に寝そべっていた体を、肘をついて半分起こす。クッションから片手を離し、侍女に制止をかけた。「ま、待って。いくらなんでも」
「大丈夫ですわ。若様がお休みのときは、大抵エヴァンス伯のご子息も非番なのです」
「第一、第二部隊ですものね。ふだんから合同で動くことが多いのですよ」
「うちの息子も第二隊です。間違いありませんわ」
「では早馬を」
「! あ、あの! だから…………聞いてっ!? ひとの話を……ッて、もう!」
そうして。
小一時間もしないうちに、若干慌てた様子のキキョウが公邸本館を訪れた。
* * *
「それは……災難でしたね」
おっとりとキキョウが笑う。
二人とも街に馴染みやすい服装を心がけての散策。すでに、初回を含め数回の付き添いを頼んだ身としては心強くもあり、申し訳なくもあるが……
アイリスは、ふう、とため息をついた。
「いいえ、キキョウ様。おかげで我が家を取り巻く事情が、ほんの少し見えました。意外にも、縁組み先としては人気なのですわ。母は、社交はそっちのけですのに」
「それはまぁ、公爵家ですからね」
「キキョウ様は? お見合いなさったことは?」
「私ですか」
きょとん、と、キキョウが聞き返す。
アイリスはわくわくと待っているが、これが、いわゆる墓穴になっていることには気づいていない。
騎士は、ほろ苦く笑った。
「先に申し上げた通り。うちは、そういうのは不干渉なんです。ぎりぎりまで本人の意思に任せると」
「ということは……お家の意向では、どなたともお会いになったことがないのですね。では、夜会は? キキョウ様は、慣れていらっしゃいます」
「それもエヴァンス家の家訓です。“情報を制するもの、戦や政を制す”――という。…………失礼。率先して『引っ掛ける』ことはありませんが、ご婦人がたが進んで教えてくださることはありがたく静聴します。その辺りのことで騎士仲間の連中とつるむのは、純粋に楽しいですし」
「まぁ」
いかにも真摯な好青年、という見た目で想像以上に逞しい貴族精神。さすがミズホの教育は行き届いてるな、と、ころころとアイリスが笑う。
――その胸元に、今日は服の上からアメシストのペンダントが揺れている。
(ずるいなぁ)
だから、キキョウはその先の言葉を、ひっそりと飲み込んだ。
――『私が、すすんで婚姻を結びたいと願ったひとは、貴女だけですよ』と。
* * *
出歩いた時間は、およそ二時間程度。
いくらアイリスが寝込まないようになったとはいえ、一朝一夕に劇的な体力がつくものでもない。
よって、初回以来必ず寄るカフェで休憩をとっている。
キキョウは、自分用に携帯できるナイフと研ぎ石を一つずつ。
アイリスは細々とした品をいくつか買っていた。その戦利品の紙袋を卓上に置き、にこにこと蒸らしたハーブティーを淹れている。
ふわり、と爽やかな香りが鼻腔を掠めた。
彼女が立ち寄りを希望したのは、街娘や貴族子女もこっそり忍びで買いに来るという評判の雑貨屋だった。
アクア輝石を磨いて作ったという剣帯飾りやシンプルな耳飾り、雲母を散らした上質な便箋を購入しているのを見れば、キキョウも何となく察しがつく。
(殿下宛てかな)
そろそろ、どの貴族家も年明けの支度に余念がない。
暦が改まる年末年始は、騎士団であっても交代で三日ほどの連休を申請できる。
宴やそれこそ見合いなど、家族の用事に精を出せということらしかった。
遠い、南の王城でも年末の夜から深夜すぎまで宴が行われ、翌朝はバルコニーから民への顔見せが行われるはずだ。
多忙を極める王太子のサジェスが、北都ばかりを贔屓にできるわけもなかった。
――――……反則技を使えば、あの王子はすぐにでも、ここに来れるはずだが。
もろもろを飲み込み、キキョウはおだやかな微笑で、湯気をあげるブランデー入りの紅茶を口に運んだ。
カチャ、と受け皿に戻す。
「それ。気に入ってくれるといいですね、殿下」
「は…………あ、いいえっ。そ、そんなことはっ!?」
わたわたと頬を染めるアイリスは初々しく、愛らしい。そのぶんサジェスへの苛立ちが募る。――ちょっとした不可解さや、謎が多すぎる点についても。
彼女が、急に丈夫になった理由。
その直接の思考や行動に至るきっかけが『彼』だったのは、重々承知だが。
アイリスの慎ましい胸元を飾るアメシストの輝きが、店頭で見つけたときよりも明らかに増している。
それが、どうしても気にかかる。
(いやな波長じゃない。むしろ、とびきり上等な“癒し”の魔法みたいだ。あのひとは、こうなることを見越してあのペンダントを選んだのか……?)
黙りこくっていると、アイリスが心配そうに眉を寄せた。
「キキョウ様。なにか?」
「あ、失礼。怖い顔でもしてましたか? 殿下のことを考えると、つい」
「そんな。仲良くていらっしゃるくせに」
「勘弁してくださいよ」
ふふふっ、と綻ぶアイリスの笑顔に、場が再び和む。
キキョウもまた、「何でもありません」と締めくくった。
その時だった。
「あ」
「……あぁ、冷える道理ですね。冬の精だ」
ちらほらと明るい灰色の空に、綿花をうすく千切ったような初雪が数片、ひらめいていた。