36 君思う。ゆえに我あり ☆
ココン、と扉が鳴らされ、自室で寛いでいたルピナスは「はい」と答えた。
が、とくに用件を告げられる気配がない。
……おかしいな、と勘が働く。
夕食後。就寝前のこの時間、湯浴みはとっくに済ませているし、とくに予定はなかった。
もしも予定にない『何か』が生じたのだとしたら、それは、またしても例の我が道をゆく派手王子に関することに違いない。
そう、ちらりと予想立ててから寝転がっていた寝台を降りる。
すたすたと赴き、開けた扉の隙間からどんぴしゃの人物を認めて一言、げんなりと呟いた。
「どうしたんです殿下。こんな時間に。しけた面して」
「ちょっと付き合え。悪いことは言わん」
「!? いや、充分悪い顔してるでしょ……って、サジェス殿下?」
あわれ、如何ともしがたい体格差というべきか。隙間から足をねじ込まれ、ぐいっと押し入られてしまった。用意のいいことに、手には一本の酒らしき瓶が握られている。
(うわぁぁ)
ルピナスは、さすがにドン引きした。
もう二度と味わいたくない二日酔いの記憶がまざまざと蘇り、正直、飲みたくないと伝える。
すると、もっとごねられるかと思いきや、王子は「構わん」とだけ答えた。どさりとソファーに身を投げ出す。ルピナスは呆気にとられた。
「……どうしたんですか、本当に」
「アイリスが素直じゃない」
「? あぁそうか、私たちが出たあと、お戻りだったんですね。母上がちょっとぼやいてましたよ。『先触れもなく、こっちには副官殿を寄越したきり。先に娘の塔に行かれるとは何事か』って。――ちょ、聞いてます??」
かなりのスパイスを混ぜたつもりだったが、サジェスは動じない。
勝手にひとの部屋の水差しに備えてあったグラスをとり、六分めまで琥珀色の酒を満たす。
更にもう一つのグラスにも少なめに注いで、コト、と向かい側の席に置いた。
「嫌なら飲まなくてもいい。形だけだ。座れ」
「…………はぁ。まぁ、そういうことでしたら」
渋々の体でサジェスの正面の席に座る。礼儀として一口だけ唇をつけた。
何の醸造酒だろうか。酒精は思ったより控えめで品の良い芳香。飲みやすい。
が、これは飲みすぎるとつらいやつ、と、ルピナスは学習能力を発揮する。
その間、サジェスは早くも二杯めを手酌で注いでいた。
「――そうか。キキョウも来てたんだな。アイリスは、奴には何と言っていた?」
「気になりますか」
「当然だ」
ルピナスは、ちびちびと舐めるように酒を味わいつつ昼間の記憶をさらう。たしか――……
* * *
「キキョウ様には、そこまで甘えるわけには参りません」
「…………甘える、ですか」
すっぱりと、見た目以上の潔さでアイリスは言葉を選んでいた。主に、曲解を避ける方向性で。
いつもよりも大人っぽい、首の詰まった深緑の生地に白いレース飾りのロングワンピース。
真面目が服を着た令嬢のお手本のようだった。
キキョウの、一見何でもなさそうな聞き返しにも丁寧に。こくり、と頷く。
「わたくしの気持ちは、殿下にあります。ですが……求婚にはお応えしかねます。理由は先日申しあげた通り。でも、……母に諭されました。全てを諦めて投げ出すのは、なにか違うと。できることから努力すべきではないかと」
「――なるほど。ごもっともですね。では、先ほど仰った『願い』とは?」
「それは」
アイリスは、伺うようにルピナスにも視線を流した。目が合うと、力を得たようにきゅ、と膝に乗せた手を握る。
「来年の春……。正式な布告は新年の勅旨となるそうなのですが。国中の、未婚の令嬢を王都に招いての大夜会があるそうなのです。若年層には、茶会も」
ぱち、と目を瞬いたキキョウが問い返す。
「それはつまり、王子様がたの見合いですか」
「はい」
……――――――――
そうして、まずは一人前の淑女として最低限の社交をこなせるよう、練習がてらじょじょに北部の夜会にも顔を出したい、と。
その際、ルピナスやキキョウにはエスコートを頼みたいこと。
くれぐれも、キキョウ自身の縁を妨げぬよう、母親同士が友人であることを周囲には強調してほしいこと。(※ミズホの命令と聞けば、大抵の北部貴族は納得する)
――それら三点を、非常に申し訳なさそうに話していた。
* * *
さらさらと淀みなく話すルピナスに、サジェスはひたすら眉根を寄せていた。
「うーーーーん」
「どうです? 何か、不審な点でも?」
「いや。ない」
「なら良かったじゃないですか。お引き取りを。お部屋まで翔びます?」
「いい。歩く。歩きたい気分だ」
「送りますよ」
「……まぁ、そうだな。立場的にお互い、そのほうが無難か」
「つまんないこと言ってないで。ほら、行きますよ。グラスはそのままでいいですから」
有無を言わせず、カタン、と椅子を鳴らして立ち上がる。ほんの少しだが、酔い醒ましに夜の散歩は賛成だった。
「可愛いげがないなぁ」
「私にそれは、不要なはずです」
連れ立って館の通路へ。ぱたん、と扉を閉める。
各所で警備を担当する兵や騎士の会釈を受け、しずかな夜の庭園へ。月はなく、満天の星と鈴ふるような虫の音が辺りを包む。先導はルピナスが掌に浮かべた“灯火”の魔法。人工水路に渡された橋を越え、あっという間に護りの塔へ。
ふと、ルピナスはサジェスに尋ねた。
「そう言えば。以前、アイリスをご自身の部屋に転移させてましたね。どんな裏技ですか?」
「裏技とは何だ。人聞きの悪い」
(…………)
うん。じっさい、とてもじゃないが余人には話せない出来事だった。そんな突っ込みはあえて笑顔で省き、先を促す。
「技ってほどじゃ、ないんだが……」
どことなく憂えた王子は振り返り、暗い木立の向こうでひっそりと佇む、松明に浮かぶ離れの塔に視線を凝らした。
「誰にも言うなよ。俺は、アイリスの気配だけはわかる。ある程度近くにいれば」
「? それは、どういう――」
「おやすみ。明日は国境沿いで夜営込みの軍事演習だろ。ぐっすり寝ろ」
「そうですけど…………うわっ!?」
くしゃくしゃと頭を撫でられ、はね除けようとしたが、ひらりと避けられる。
非難の声を背中で受け流し、ひらひらと手を振った王子はゆっくりと、みずからにあてがわれた寝所へと戻って行った。