33 見守る瞳
真っ白な朝日が窓辺に差す。
熱が下がったアイリスは自分にできる最低限の身支度を整え、やわらかな風合いの木材でつくられた、小ぶりな文机の前に立った。
しゅるり、と引き出しを開けて、なかに入れておいた宝物をつまむ。極細の金鎖が涼やかな音をたて、ゆらゆらと揺れる紫水晶のトップが光を弾いた。
(殿下の瞳の色みたい)
今更ながらそんなことに気づいて、一人、気恥ずかしくもなったが、せっかくの頂きものだ。心機一転の朝に最初に思えたのは、これを肌身離さず身に着けておくことだった。
すなわち、春を目指して動くこと。冬に寝込む回数を減らして、王都までの長旅に耐えうる体力を維持すること。――ほか、やらなければならないことは幾つもあったが、自分を奮い立たせるものが欲しかった。
お守りのように。
(……)
やや俯き、首の後ろに手を回したアイリスは、ちいさな金具を慎重に留めた。装着できたのを確認してから、肩の前に垂らしておいた長い藍色の髪を背に払う。ティアード・カットのペンダントトップは、襟をひらいた内側からすとん、と胸元へ落とした。
金属のつめたさは、どきどきと脈打つ自分の肌で、あっという間に温もった。
「よし。がんばります」
コンコン、と背後で扉が鳴らされ、アイリスを起こしに来た侍女がびっくり、嬉しそうな顔をして見せるのは、そのすぐあとだった。
* * *
「どうかしら。春に、王都で夜会や……ひょっとしたら、昼間も。いろいろと他家のかたと交流しなければならないの」
めずらしく自室のクローゼットをひらいたアイリスは、侍女に頼んで呼んでもらった、公爵家お抱えの服飾師やお針子たちに手持ちの衣装を全公開した。
隣で、片眼鏡の痩身の女性がすばやく端から端までを視認している。失礼しますね、と断ってからあちこち手を差し入れ、唸りながら全てを見終わった。
「さすがですね。ふだんのお嬢様であれば、何一つ足りないものはないくらい揃っています。ですが」
「はい?」
服飾師からは、季節ごとに区切られたワードローブのうち、冬から春の少なさを指摘された。
――例年、寝込みがちであること。春もうっかりと風邪をひきたくないので籠りがち。そんな生活が透けて見えて、我がことながらアイリスは頬を染める。弱々しい声で相談した。
「その……。今年の目標は、冬も長く寝込まないことと、できれば街にも何度か行きたいの。体を強くするには、まずは歩くことだと母から聞いたわ。それで」
「ははぁ。正しいですね。さすが公爵様。では、とびきり温かい防寒機能のある冬用のドレスやブーツ、手袋も。耳当ても作りましょう。春の旅装も必要ですね? それにデイドレス。夜会用のドレス……二着ずつかな。予備も一気に仕立てましょう。デザインはどうなさいますか」
「あなたに任せるわ」
「畏まりました」
恭しく片眼鏡の女性が礼をする。傍らで助手にあたる少女がなにごとかメモを取り、周囲のお針子たちに、すでに指示を飛ばしていた。
今年の始めに型紙をとったきりだったサイズも採寸し直し、満足げなプロ集団が引き上げる頃。くたくたになったアイリスがソファーで一息ついていると、再び来客の知らせ。
「……どなた?」
「申し訳ありません。お休みのところ……。若君と、エヴァンス伯爵子息のキキョウ様がお越しです」
「! お通しして」
「はい」
――驚いた。いつもはすぐに上がってもらうのだが、今日は塔自体がさまざまな業者の立ち入りで込み入っていたため、一階入り口で待ってもらっていたらしい。
深呼吸したアイリスは立ち上がり、少しだけ乱れていた髪やロングワンピースの裾を、ぱぱっと手で直した。
「大丈夫? アイリス。朝からこんなに人だらけな塔なんて、初めて見た」
「わたくしもよ」
――思うに、彼らとこの部屋で別れてから今日で二日目。騎士団で実務と聞いていたのに、なぜ……? と、ルピナスの背後に視線を流すと、いつも通りおだやかだが、ちょっとばつの悪そうなキキョウと目が合う。
「ごきげんよう、キキョウ様」
「こんにちは、アイリス嬢。熱が下がられたようで良かった。……ええと、こちらは母から。見舞いにと預かりました」
「まぁ! ありがとうございます。夫人お手製かしら。いい匂い」
「でしょうね」
騎士服のキキョウが言うには、街を巡回中に買い物帰りの母のミズホに捕まり、問答無用で実家まで連れていかれて、お使いを頼まれたらしい。その際、第二隊の隊長は快く送り出してくれたそうだ。(※エヴァンス伯爵夫人の顔は広く、そして強い)
ミズホが得意とする、スパイスの香り豊かなジンジャーブレッド。バスケットの布をめくると、ほかほかとしているので焼きたてを持たせてくれたのだろう。
ありがたく休憩のお伴に、と侍女に渡し、切り分けてもらうことに。
「それで…………先日のお話なのですが。私の勝手で性急に事を進めてしまった件を、貴女にお詫びしたく」
「!? いいえ、そんな」
本当に、本当に申し訳なさそうに長身のキキョウがうなだれるものだから、アイリスは慌ててその手をとった。
あ、とルピナスが一声を漏らし、キキョウが固まる。
「どうぞ、お掛けになって。ルピナスも。あの日、母とはきちんと話し合えました。その上で、わたくしからお伝えできる本当の気持ちを……。キキョウ様には、じつは、改めてお願いしたいことが」
真っ直ぐに見つめたかと思えば、恥じらうように伏し目がちになる姉に釘付けになる“先輩”に、気を利かせたルピナスが、ぽん、と背を叩く。
「――私は居ないほうがいい?」
「? いいわよ? 居ても」
「だめです、居てください……!」
ほぼ同義語、いっぽう明確な温度差のある台詞が両者から飛び出て、気圧されたルピナスが「わ、わかった」と呟く。
やがて、若干残念な生き物を見るまなざしで、二人を見つめた。