32 結婚とは
なぜか求婚者が二人。
(わたくしの意思って……)
アイリスは、こっそりと憂えた。
そもそも、自分には結婚するつもりがない。何かと足らぬ身ではある。いわゆる貴族子女として、誰かの妻となる「務め」をまっとうできるとは思えないからだ。
それを、どうしてわかってもらえないのか。
一つ嘆息をこぼしたアイリスは立ち上がり、ふわり、と礼をとった。顔を伏せたままで中座を願い出る。「大変申し訳ないのですが」
「?」
残る紳士二名と弟は、きょとん、と目をしばたいた。
ここはアイリスの私室だ。そこに客を残し、彼女自身が退出する理由とは。
「ことは、わたくしの一存では心許のうございます。殿下。いつ王都にお戻りですか?」
「……早くて五日後。元子爵から没収した領地は当面、俺の直轄地になる。その手続きと下見に三日。代官の選出に二日だが……アイリス?」
王子のまっすぐな瞳に胸は痛むが、あえて無視。
アイリスは続けて、キキョウに質問した。
「キキョウ様はその間、ずっと殿下のお供を?」
「い……いえ。私は、明日からは通常任務です。訓練と実務、それから国境で軍事演習を。四日後には戻りますが」
「わかりました」
こく、と頷いたアイリスはおっとりと。
けれど、きっぱりと告げた。
「では、五日後の夜までにお二方にわたくしの気持ちと、ジェイド家の総意をお伝えできるよう努めます。――ルピナス。ここで、もう少し殿下がたのお相手をお願いできるかしら。くれぐれも仲良くね」
「!? ええぇっ」
お鉢が回ってきたルピナスは、見るからに気が乗らない顔をした。が、視線につられて卓上を見ればたしかに茶も菓子も中途半端に手をつけられた状態。
ここで散会すれば、片付けに来た侍女らはさぞかし要らぬ憶測をするだろう。アイリスの言い分(※喋っていない。目線だけ)は理解できる。できるのだが。
ルピナスは、ちょっと残念そうに姉を見上げた。
「母上のところ? まぁ、官舎だとは思うけど。一人で行ける?」
「行けるわ。お仕事をいただいたときは、一人で行っていたもの」
言うや否や、失礼、と断って続きの間のクローゼットへ。フードの付いたお気に入りの上着を手に取り、さっと袖を通した。履き物をブーツに変える。外はきっと、あちこち水溜まりだから。
――じつは、こう見えて怒っている。怒りによる高揚感で、体の熱っぽさや怠さはどうでも良くなっていた。
おそらく、誰もそんなことには気づいていないだろう。いちいち知らせる必要もない。
(……だめね。わたくし、頭を冷やすべきなんだわ。ひょっとしたら、殿下がたも)
凪いだ水面のようにしずかな面持ちで部屋に戻ったアイリスは膝を折り、再度完璧な礼をして見せた。
* * *
「それは、随分と勇気ある撤退をしたこと」
カリカリ、と、ペンを走らせながら執務中のイゾルデがほのかに笑う。
官舎の一室、公爵執務室ではないが、他の文官も出入りする大資料室の奥まったテーブルに、母は数名の側近とともに居た。
人伝に聞いてやっと辿り着いたアイリスは隣の椅子に座り、母の手元を見ながら一連の恥ずかしい話を終えたところだ。
――なお、側近の方々には少しだけ席を外してもらっている。
アイリスは、やや脱力して答えた。
「敵前逃亡とは、仰らないのですね」
「備えもなく敵に突っ込むものではないわ。兵が無駄死にするだけよ」
「あぁ……はい。そうですね」
資料室は広い。実用書や公爵領の統治に関する記録書、或いは北方全土の関連書が納められているだけあって、教養関連の書物を主体とする公爵居住棟の図書室よりは断然規模が大きい。
明かりとりに壁一面が格子模様に区切られた窓をなし、白く明るい。必要な書類を求めて往来する官の気配もおだやかなもので、アイリスは自然と気持ちが落ち着くのを感じた。
かさり、と覚え書きを傍らに置き、資料をめくる母の横顔もまた、しずかだ。
普段は苛烈な印象がつよく、多忙そうなこともあって滅多に自分から近づいたことはなかった。なので、余計にいまの距離感を不思議に感じる。……だからだろうか。かなり、素直に打ち明けてしまった。
ちらり、とイゾルデが娘を流し見る。「大きくなったこと」
「はい?」
「あなたは、子を望めなければ結婚するものではないと思う?」
「え、と……」
資料の頁を押さえ、再び何かの記載を写し取っている。その合間にとても大事なことを訊かれている気がして、アイリスは返事に詰まった。イゾルデはさらりと話す。
「あなたたちの父親。ユーハルトもあなたと同じ、線が細くて。幼い頃から病気がちだった。でも、私は彼を夫に選んだわ」
「!」
初めて父のことを聞いた。
父が、自分と似た体質だったかもしれないことも。北公家の傍系に連なる、とある伯爵子息だったとしか知らなかったのだが。
「意外?」
「はい……すみません」
「いいのよ。当然の反応だわ」
カタン、と椅子をずらしたイゾルデはアイリスに触れることなく、じっと見つめている。まるで、自分達が産まれる前に亡くなった父の面影を探すように。
「彼は、だけど、幸せだったと思うわよ」
「お母様……」
わずかに滲むような微笑があまりに透明で、アイリスは束の間、胸が締めつけられた。けど、どうしていいかわからない。
泣きそうな娘の頭に、おそるおそる伸ばされる手。母にも怖いことがあるのかと、やさしく撫でられていることが夢のようで、ほろり、と涙が頬をこぼれた。
「――あなたが思う通りに。ジェイド家のことなど気にしなくていいわ。そうそう、それに」
「?」
す、と手が離れる。
娘の頬を指先で拭いながら、おだやかに、おだやかに染み入る声音でイゾルデは告げた。
「来年の春、王城で、王子様がたの婚約者を募る茶会と夜会があるそうなの。どうしても自信が持てないなら、これに参加するのを一つの目標となさい」
――――サジェス王子が好きなのでしょう? と、にこやかな不意打ちで、さも前提条件のように付け足され、アイリスは手も足も出ない。赤面してちいさく叫ぶだけ。
「お、お母様……!!」
もちろん、反論一つできなかった。