31 逆さまの二人
午後、雨が小降りになったころ。
心もち顔色の良くないルピナスが現れた。
「ごめん、休んでた?」
「いいえ、平気。少し横になってただけ」
しゅるり、と長椅子から滑り降りて、膝掛けにしていたあたたかな毛織りのショールを羽織る。
どうぞ、と席をすすめて卓上のベルを鳴らす。今度は素直に隣室の侍女を呼んだ。
* * *
ほどなく運ばれる紅茶一式には、銀のトレイの上にたっぷりのミルクとハチミツもセットされていた。豪勢なことにアップルパイも。
が、ルピナスはミルクを一垂らししただけのカップを傾けて、ちびちびと口に運ぶ。
珍しいな……と、アイリスは首を傾げた。「あ」
それからすぐ、理由に思い当たった。
「ルピナス、二日酔いなのですって? 大変ね。天地が逆さまになると伺ったわ。あなたこそ大丈夫?」
「っ!」
ゴフッ、と、妙なところに紅茶を入れてしまったらしいルピナスがさかんに咳込む。
いつもとは立場が反対。みごとな逆転劇だった。
しばらく呆けていたが、急いで弟の隣に移動して腰をおろし、背を撫でてやる。
やがて、前傾姿勢で息を整えたルピナスは涙ぐんだジト目で姉を見た。
「どっちから聞いた?」
「キキョウ様から」
「あの、お喋り……!!」
(※気のせいでなければ)ちっ、と舌打ちしたルピナスがかなり荒んで見えて、アイリスは目を丸くする。
「あなたったら、騎士団に入ってからどんどん……その、男の子みたいになっていくのね」
「乱暴になったってこと?」
「うーん……いいえ」
ふるふる、と頭を振った。
じっと弟の黒い双眸を見つめる。
「相変わらず、とっても優しいわ。こうして、つらくても、わたくしの部屋に来てくれるもの」
「…………それは、どうも……」
表情は変わらないが、ごにょごにょと語尾が不明瞭となる。
照れたときのルピナスは、可愛い。
アイリスは、にっこりとその手をとった。
剣を持つものとなった、ところどころ皮膚が固くなり始めた、まだ薄い手。
「そう言えば、殿下はお仕事だそうね。ルピナスは? いいの?」
「……あぁ。ロードメリア兄弟の断罪だろう? 私は若輩だから来なくていい、と言われた。昨日、母上から」
「ふうん」
――自主課題はいっぱいあるけど、今日はもういいかな……と漏らしたルピナスは、後頭部をソファーの背もたれの上辺に預けた。大儀そうに息を吐くさまに、冗談めかしたアイリスが尋ねる。
「ねぇ。ちょっと横になったら? 寝巻きと寝台を貸してあげる。で、わたくしがルピナスの服を着るの。名案ではなくて?」
「名案どころか。大冒険すぎるよ、アイリス……」
「それはちょっと、見てみたい気もするな」
「!!」
「あ。殿下。キキョウ殿も」
「やぁ。またお邪魔します、アイリス嬢。おはようルピナス」
コンコン、と気軽なノックの音。
入室したのは務めを終えたらしいサジェスとキキョウだった。
ルピナスはキキョウに「どうも」と返しつつ、胡散臭そうな顔でサジェスに向き直る。
昨夜の会食で腹に据えかねることでもあったのか、座ったままだ。
「見てみたいのは女装の私ですか? 変態殿下」
「まさか。凛々しい女騎士となられた、うるわしのアイリスが見てみたい」
「左様ですか……」
訊いた私が馬鹿だったな、と、ルピナスが苦笑まじりに呟く。
急に賑やかになった塔は華やぎ、外も完全に晴れたもよう。
雲間からの陽射しにあわせ、カーテンを開けた室内はにわかに明るくなった。
* * *
「ところで。キキョウ様は、お好きなかたや恋人はいらっしゃらないんですか?」
「!!」
「っぐ……!?」
「なんでまた」
――――あのあと。
侍女たちに紅茶の追加を運んでもらい、ほのぼのと卓を囲んでいた昼下がり。
アイリスの突拍子もない発言は、年長者二名からすさまじい勢いで呼吸を奪った。ルピナスだけが淡々と突っ込む。
キキョウは、ちらりと隣のサジェスを一瞥した。「――いませんよ」
「本当に? 伯爵夫人に聞いてもそうだと仰る?」
「なぜ、母が出てくるのです」
「だって。ミズホ様なら何でもご存知そうだわ」
「たしかに、そうかも知れませんが」
「まっ……待て、アイリス。一体どうしてそんな話に」
「あっ。ええと。その」
身を乗り出したサジェスに驚き、アイリスは口元を押さえた。
まずい聞き方だったかな、と思ったときには遅かった。
怖々とキキョウを窺うと、それほど動じた様子もない。しれっと口をひらく。
「求婚、いたしました。正確には婚約の打診を。我が家でアイリス嬢の後ろ楯となりたいという意味ですが」
「「!?」」
「後ろ楯。どういうことだ」
驚愕のピークが過ぎ去り、剣呑さを滲ませる瞳でサジェスが問う。キキョウは膝の上で両手を組み、真摯な表情で答えた。
「よくよく考えていただきたいのですが。殿下の、アイリス嬢へのなさりようは外堀を荊で埋めるようなものです。害意や憶測を呼びこそすれ、ちっともこのかたを守れていない。閉じ込めているだけです」
それから、ふっと目を細めた。
「もちろん、横取りを目論むわけではありません。アイリス嬢のお気持ちを、何より優先させたい。そして、殿下はもうすぐ王都に戻られてしまう。その間、このかたは再び貴族たちの好奇の噂の的です。ですが」
――――私なら、他家の令息がたへの牽制になりますし、見ようによっては殿下が付けた守護騎士にも見えます。
そう告げるキキョウは誠実さに溢れ、たしかに、と頷くところの多い提案だった。
(あんまりにも、わたくしに条件が偏り過ぎてるけど……)
アイリスは一人、思案げに眉を寄せる。
貴族の噂は、出歩かなければ耳にすることもない。母が社交そっちのけなため、自然と身に付いた引きこもりスルースキルは絶大だった。
――初夏に行われた茶会のような、特殊な場でもない限り。
いっぽう、サジェスとキキョウは未だ真剣な鍔ぜり合いをしているようにも見えた。
「誓ってもいい。あくまで『家同士の婚約打診』という、おぼろげな噂にとどめます。情報統制は我が家のお家芸ですから」
「…………」
腕を組んで無言のサジェスに「いかがですか?」と、温厚そうな騎士は、たたみかけた。