3 王子の心
夕刻から降り始めたどしゃ降りは、夜の入りとともにしずかに止んだ。雨足を気にせずとも良いよう、エントランスの前には六本の柱に支えられた屋根が大きく張り出している。
屋根のおかげで乾いた足元からは、王城風の大理石をもちいた階段が続き、到着した人びとを次々に縦長の正面入り口へと誘う。
こぼれる光、談笑、楽の音――
今宵、北都の閑静な貴族街にあるグレアルド侯爵邸の馬車だまりは、粛々とした賑わいのうちにあった。
* * *
ゼローナに公爵家は「北公」「東公」「南公」と呼び習わされる三家だけ。
そのうち北公家は代々将軍家としての気質がつよく、社交を二の次とするきらいがある。
よって、北方貴族らは過ごしやすい夏の間、花の蜜を集める蜜蜂のごとく忙しい。領地経営はほぼ部下任せで、近隣の夜会に精を出すのが常だった。
さすがに春や秋は、年中行事の一環としてジェイド家が公式夜会を開催するのだが。
(つまらんな。双子がいない夜会など)
右手に酒杯。左手は悠然と腰に当て、立太子前の王子の盛装に身を包むサジェスは、何度めかのため息をついた。
ホールの上手に立ち、入れ替わり立ち替わり訪れる紳士淑女らを笑顔でいなしている。
挨拶の片手間に喉を潤すため。
また、進んでダンスをする気がないのを示すため、時おりグラスを口元に運ぶ。
――――――――
サジェス個人の目的とは関係なく、魔族領との国境を有する北方視察は、統治のうえでは必須事項。
だからこそ、多忙を極める父も、成人した自分を気安く名代として派遣する。
その意味も効果も、充全にわかっている。
地理的に断絶しやすく、厳しい冬や魔獣の被害を受けやすい北部の民への労いは元より、ちょっと放置するとすぐに私腹を肥やし始める中堅層の貴族らを牽制するには、王族が直接かの地を訪れるのが一番なのだ。それに……
「殿下。お久しぶりです。昨年の秋からまた、随分と背が伸びられましたね。ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ない」
「グレアルド侯爵」
こちらは酒杯を手にせず、額の汗をしきりにハンカチで押さえている。頑健そうな、白髪まじりの短いブロンドを後ろに撫で付けた壮年男性だった。言葉の殊勝さのわりに、にこにこと笑みを浮かべながら近寄ってくる。
――たしかに、昔は見上げていた髭面が同じ高さにある。向こうが縮んだのでなければ、こっちが伸びたのだろう。
グレアルド侯爵はわずか一代で北部における、穀物を主とする流通を一手に握る大商会を築き上げた。
つまり、もっとも勝手に動いて派閥形成に走りやすい、王家としては睨みを効かせるべき相手だった。
サジェスは警戒心を押し隠し、穏やかに答える。
「いや、構わない。俺は北へは息抜きに来ているようなものだから」
「また、そのような」
フフフッと、互いに食えぬ微笑で謙遜の応酬を終えると、グレアルド侯爵が体の位置をずらす。すると、先ほどから無言でシルエットを主張していた、淡い黄色のドレスの主が露となった。
出た。
色素の濃い金髪を複雑な形に結い上げた、一見おっとりとした水色の瞳の令嬢ルシエラ。
サジェスがこっそり苦手とする相手だった。
――――効果。
それは、飢えた狼の群れに羊を一頭放り込むようなものだと認識している。この場合の羊は、間違いなく自分だろう。
サジェスはつとめてにこやかに彼女に声をかけた。
「こんばんは、ルシエラ殿」
「ご機嫌うるわしゅう、サジェス殿下」
残念。全然うるわしくないんだが……と、侯爵に流し目をくれれば、やたらと嬉々と迫られる。これはこれで、輪をかけて嬉しくない。
「ささ、娘は殿下にお会いできるのを一日千秋の思いで待っておりました。グラスはお預かりしましょう。よろしければ踊っていただけませんか」
「卿とか?」
「そんなわけはないでしょうッ!? ルシエラとです。一曲だけでも」
「うーん」
視線を遠くに投げかけると、グレアルド侯爵父娘だけではない。そこかしこで未婚の娘を連れた紳士らが、今か今かとこちらを伺っているのが見えた。
締観。
サジェスは軽い吐息で肚をくくった。
「わかりました。では一曲。よろしいですか? ルシエラ殿」
「喜んで」
……たしかに、国王名代として招かれながら、主催家の令嬢と踊らないのも外聞が悪い。
いっぽう、なよやかでいて、父親のゴリ押しに全く動じないルシエラは相当に性質が悪いと思った。
そんな令嬢が一瞬だけ、本当に嬉しそうな顔をするのも困る。
サジェスは、同い年の令嬢の手を取りつつ、心に浮かぶ、長い藍色の髪の少女ただ一人へと想いを馳せた。期待に潤むルシエラの水色の瞳を見下ろし、届かない事実に思わず苦笑する。
――北公息女アイリスは、芳しくはない健康状態もさることながら、まだ未成年の十四歳。双子のルピナスも含め、夜会に出席していないのは当たり前。
来月、夏の盛りとなる。その誕生日のデビュタントまではどうか、正式な求婚はお控えください、と、ジェイド公爵直々に嘆願を受けている。
(ままならんな)
歯がゆさに、その夜はルシエラを筆頭に、何人かの令嬢へは自然と言葉少なになってしまった。
さらに、ちょっとまずかったことに、かなり無愛想となったことは否めない。