25 大切にしたいもの
「いまごろ、どの辺りかしらね」
「……」
「広場には当然寄ってるとして。あんまり歩かせても心配だから、しょっちゅう休んでいるかもしれないわ」
「…………」
黙々と紙にペンを走らせる息子に、正面に相席したイゾルデがどことなく、わくわくと告げる。
手元には『北公領騎士団における素材横領事件の関係者供述等報告書』と題した覚え書き。それを清書させていた。本来ならば文官の仕事なのだが、何でも一通り体験させるのがジェイド家の家風でもある。
デビュタントを済ませてからというもの、あちこちたらい回しさせている。ちなみに、これを書き終えても研修用の書類はまだまだあった。
上機嫌のイゾルデは饒舌だ。
「当然の措置としてキキョウ殿を付けたけれど。ちょっと、気の毒だったかしらね」
「……それは、王子にですか。キキョウ殿に、ですか。それとも、直前で同行者から外された私に対してでしょうか!??」
バン! と机を叩くルピナスに睨まれ、イゾルデは「あら」と目をみひらいた。心底意外そうだ。
「あなたも行きたかったの?」
「当たり前です」
「なぜ?」
「……なぜって……。心配ですし、それに」
虚を突かれ、ふっとルピナスが視線を下ろした。居心地が悪そうだった。
――近ごろのアイリスは、とみに体調の良い日が増えた。輝くような笑顔が増えた。
その、どれものきっかけが紅髪の王子にあるのは否めなくて。
何だかんだと彼の君の滞在は嬉しい反面、こと、姉に関しては腑に落ちないというか――癪にさわる。面白くない。
が、こんな子どもじみた本音を言うつもりは、一切なかった。
代わりに、ルピナスは渋々と口をひらく。
「サジェス殿下が街中でアイリスにどんな振る舞いをなさるか。母上は想像できないとでも?」
「まあぁ……。いやね。想像だなんて」
子どもへの愛情表現は鉄面皮。軍事や政に関しては鋼の心の持ち主と名高いイゾルデも、じつは嫡子の息子に対してのみ幾分表情が和らぐ。もちろん、余人のいない場所に限る。
――本当は、娘のことだって心配で心配で仕方がないくせに。
無言でちくちくと刺さるルピナスのまなざしを受け流し、双子の母は苦笑した。
「娘の塔に翔ぶな、と、あれほどお願いした三日後に、上手にアイリスだけを自分の塔に“転移”させるような器用なかただもの。それは抜かりなく、あの手この手で口説き落とすでしょうね」
「! あの手……この手……」
あの日は。
過ぎてしまったこととはいえ、ルピナスは、つくづく王家の能力の厄介さを嚙みしめた。
姉が会談中に寝込んだ四日目の朝だった。あろうことか、あの王子は三日目の夜に「呼ばれたような気がして」と、勝手にアイリスを離れの塔から自分の塔へと“転移”させていたのだ。能力の特性上、必ず本人が転移対象を視界に収めていなければならないはずなのに。
(サジェス王子の魔力が並外れて強いという意味か……それとも、何かほかに理由が?)
騒動を思い出し、なるべく記憶の片隅に追いやっていたルピナスは、また、まざまざと王族専用の“護りの塔”の寝室で、サジェスに捕まっていたアイリスの泣きそうな顔を回想してしまった。
さっと青ざめて机にひれ伏す息子に、次代の領主と将軍職を継がせるべく指導に余念のないイゾルデが、とんとん、と積み重ねた本を指で叩く。
「泣いてる暇はなくてよ。ルピナス。正々堂々、殿下の邪魔をしたいなら課題を終わらせなさい」
「ぐっ」
「……」
――イゾルデは、ぐうの音を漏らす難しい年ごろの嫡子の頭を、わずかでも撫でてやりたい衝動を、かろうじて堪えた。
* * *
そのとき。市を冷やかして回った一行は、イゾルデの読み通り手近なカフェで寛いでいた。
貴族御用達というわけではなく、平民階級にもひらかれている店内でも、やや奥まった場所で仕切りに隔たれた席がある。そこでようやく人目からも解放された瞬間だった。
(これに慣れられるって……王族のかたって、凄い。ますます無理な気がするわ)
たとえ、なぜか上向きになってきた体調をこのまま維持できるようになっても。
上目遣いにホットココアを飲みつつ、そっと窺う。
それにめざとく勘づいたサジェスは、にこりと笑った。
「本当に、アイリスと街を歩けるなんて夢みたいだ。体は? きつければ、いつでも言ってくれ」
「……っ! お気遣いを……ありがとうございます。大丈夫です」
「そうか」
それが、本当に、本当に嬉しそうだから。
アイリスもつい、ほころぶように微笑んでしまう。
――――あなたの、お妃さまになられるかたは幸せです。
そう考えてしまう胸の痛みは切なくて。でも、手放したくはない。得がたいもの。
アイリスは無意識でチャリ、と、胸元の紫水晶のペンダントを握った。
市で唯一立ち寄った不思議な雰囲気の天幕で、店主が必要最小限しか喋らず、頭からすっぽり被るタイプのマントで姿を隠していたのが気になるところだったが、サジェスもキキョウも食い入るように商品を眺めていた。
「ここの品は段違いだな」と、こぼしていたので掘り出し物だったのだろう。
初めての贈り物。細い金の鎖の先で、涙の形にカッティングされたアメジストがうつくしく揺れている。
しみじみとしたその仕草に、同行の二人は((これで二人っきりなら、言うことないのに……))と、そっくり同じことを考えていた。
おだやかに、おだやかに時は流れて。
沈黙は、金。