2 夏霞の姫
アイリスは、ある程度天気が読める。
雲がどうとか、温度や湿度がどうという問題ではなく、ただ単に体調の判断基準だからだ。
季節の変わり目や大きな雨の直前。或いは豪雪。大風。そういった大気の変調には、我ながら敏感なほうだと思う。
結局、夕刻から辺り一帯は激しい雷雨に見舞われた。
案の定ずきずきと痛む頭を枕に押し当て、窓硝子を打ちつける雨をぼうっと眺める。
扉がほとほとと叩かれ、帰邸後に入浴を終えたらしい弟・ルピナスが部屋を訪れたのはそんなときだった。
「若様、どうぞ。すぐにお茶をお持ちしますね」
「うん。ありがとう」
控えの侍女が出て行くのと入れ替わりにルピナスが寝台に近づく。
ルピナスは枕元の椅子に座ると、慣れた仕草で片側の肘掛けに体重をかけ、嘆息をした。
それがやけに(若いくせに)苦労性を感じさせ、アイリスは横になりながらも、こてん、と首を傾げる。
「お帰りなさい、ルピナス。着替えはお役に立てたかしら。雨には降られなくて?」
「えぇ。おかげさまで、こざっぱりした格好で帰れまし…………って、そうじゃなくて!!」
くわっ、と深い夜色の瞳をみひらいてのノリ突っ込み。心なし頭痛の和らいだアイリスは、くすくすと笑う。
「じゃあ、どうして? 疲れたのかしら。差し入れは口に合わなかった?」
「いいや、美味しかった。だからこそ疲れたというか……」
「?」
決まり悪そうにそっぽを向くと、こめかみの辺りを指で掻いて目を泳がせている。
複雑そうなルピナスの横顔に目を瞬いていると、侍女が湯気の立つ紅茶と薬草茶を盆に乗せて戻ってきた。
* * *
「あのあと、トーナメント戦が実施されたんです。魔法もありの」
「うそ。本当にやったの……?」
ちいさなサイドテーブルに、紅茶と一口大に切られた水蜜桃をセッティングされ、ルピナスは渋々と口をひらいた。もちろん、フォークで刺した果肉を口に放り込みながら。ぎりぎりの行儀よさで、きちんと咀嚼を終えてから話している。
アイリスは、背にいくつもクッションを当てられて体を起こしていた。慣れた香りの薬草茶に微妙な顔になりつつ、やんわりと話を促す。
曰く、第一部隊全員に配られたあとに余ったケーキは二つ。それを賭けて、有志ら八名による模擬試合が行われたらしい。
アイリスは震える声で問いかけた。
「それっぽっちのために。一体、どんなかたが?」
「ええと。平の兵士はみんな遠慮してたし、隊長は審判を名乗り出たから、発案者の殿下と正騎士の先輩がたが六名。飛び入りで、第二部隊からはキキョウ殿が」
「キキョウ……エヴァンス伯爵のご子息の? やだ、どうしましょう」
アイリスは青ざめた。
エヴァンス伯爵夫人はアイリスとルピナスの母と懇意にしており、息子のキキョウとも面識がある。
彼は、夫人とともに週に一度はこの塔に見舞いに来てくれる、数少ない友人の一人だ。
聞くところによると、キキョウは剣の腕も確かで頭脳明晰。軍部では若手の出世頭で、稀少な障壁魔法の使い手らしい。
難度の高い魔獣駆除の際は必ず編成部隊に組み込まれるというから、実力も折り紙つきなのだろう。
しかし、菓子が好きだと公言して憚らないサジェス王子と違い、とくに甘党と聞いたことはない。
名乗りを上げてくれたのは、差し入れた自分の顔を立ててか――ひいては、母公爵の面子のためだろうかと、ぐるぐると考える。
(今度、お礼とお詫びをしなければ)
こく、と真面目に頷いた双子の姉姫に、ルピナスは怪訝そうに眉をひそめた。
「アイリス?」
「あ、いいえ、何でも。それで、どなたが?」
「どれも名試合だったけど。決勝戦は殿下とキキョウ殿。勝者は当然、殿下だった」
「ああぁ……」
アイリスは額を押さえて呻いた。
当然、と、ルピナスが断言できるのもわかる。
肥沃で広大なる領土を誇る我が国――ゼローナが戴く王家の人びとには、代々不思議な能力が顕れる。
甚大な魔力を抱える王子や王女が多いのは元より、創国から『神の祝福』と呼ばれる特殊能力を遺伝によって伝えるのだ。
その、能力とは。
「キキョウ殿も頑張っておられた。でもね、殿下の能力は反則だから……。人間、誰しも突然違うところに翔ばされたり、急に真後ろをとられちゃあ、なす術なんかない」
「そうよね……」
――――転移魔法。
サジェスは、身にそなえた不思議の力で、文字通り神出鬼没を得意とする。
いまでこそ、そこそこの良識をもって急な訪問だけは避けてくれているものの、彼が北公領騎士団に赴任した四年前などは、実にやんちゃなものだった。
目を伏せて溜め息をつくアイリスの心情を正確に読みとり、ルピナスはちょっとだけ同情のまなざしとなる。
「アイリス、しょっちゅう殿下の隠れ簑になってたものね」
「言わないで」
「朝、来たら寝台で一緒に寝てたときなんか、卒倒ものだったよ」
「言わないでったら……!」
羞恥に頬を染めるアイリスは生来の虚弱さゆえ、滅多に公邸の端にある居住塔からは出て来ない。
例外として、今日のように過ごしやすい夏の季節だけ、ふらりと出歩くことがある。
そのため、若い騎士らを中心に『塔の星姫』『夏霞の姫』と呼ばれていることを、本人はどこまで把握しているのか……
いっぽう、ゼローナ第一王子サジェスと言えば。
彼が、甘い菓子以上に、北を治めるジェイド公爵令嬢アイリスに執心だということは、おそらく全北方貴族が知っている。
(知らないのは、暢気な本人だけじゃないかな……)
ルピナスは、かなり残念なものを見る思いで、おっとりと薬草茶を口に運ぶ華奢な姉を見つめた。