14 ファーストキス
礼儀作法の一環として、体が弱くともダンスは叩き込まれている。
それこそ「弱いから」というべきか。
アイリスは、ふだんから肩を張ったりしない。むだな力も。
背筋を伸ばすのは、結局は、そのほうが体を縦にしているときの負担が少ないからだ。
なので、こんな風にきちんと腰を支えられ、手をやさしく握ってリードされれば、ステップも自然と踏める。
キキョウも上手だったけれど。
サジェスは踊り慣れているのか、とにかく体重移動が巧みだった。
ゆるゆると緩急をつけて動く流れに沿って風が生じる。弧をえがく。上質な薄絹のドレスの裾がふわりと浮かび、空気をはらむ。
その全てが心地よくて、アイリスは、つい、微笑んでサジェスを見上げた。
「……――」
変装のサジェスもまた、何かを含んだように大人っぽく笑み返してくれる。
見つめる紫の瞳には、ホールに満ちる灯火やシャンデリアの煌めきが宿るようで、互いに無言なのがちっとも気にならない。
曲が終わるか否やというとき、サジェスは、そっと頬に唇を寄せてきた。
もちろん、触れはしない。内緒話のようだった。
「――おいで。あっちの柱の影から庭園に降りられる。二人きりになりたい」
「!!」
(~~ま、待ってください、殿下ッ!?)
なぜ、ひとの邸宅にそんなに詳しいんですか、とか。
そういえば、自分がここに来たのは初めてです、とか。
言いたいこと、気づいたことは忙しく脳内をめぐったが、どれも言葉にならなかった。とたんに足元が覚束なくなる。
まるで宙に浮かんでしまったような心許なさに、作法としてサジェスの腕にかけた手や、組んだ指から根こそぎ力が抜けた。
――――はからずも、その抑えた声音に、躯の内側を撫でられるようにぞくりとした。
* * *
「大丈夫か? 無理をさせたか。顔が赤い」
「い、いえ。平気です。ですから、殿下……手を」
「ん?」
「離していただけませんか」
「断る」
「!? そんなっ??」
不承不承、腰に手を添えられたまま、小ぢんまりとした庭園を歩く。
足元をおぼろに照らす細い篝火は、虫除けの香草もともに焚かれているのだろう。不思議な良い匂いがした。
同じように庭を散策する男女も梢越しに見えて、かえって緊張する。これではまるで。
(『逢い引きのようです』だなんて、絶対に言えないわ……!)
沈黙をどうとってか、サジェスは、目当ての場所にたどり着いたようだった。ほのかな明かりが届く茂みの奥に、乳白色の石で造られた長椅子がある。そこに導かれた。
「……本当に、我が家についてお詳しいんですね」
ぼそっと呟くと、愉快そうに笑われた。
「第二の実家だと思っている」
「まぁ」
つられて、くすくすと笑うと、おもむろに真剣な表情で顔を覗き込まれた。
「心配だ……。連れ出した俺が言うのも何だが、無防備すぎる。これが遊び目当てのろくでもない男だったらと、戦々恐々だよ。アイリス」
「大丈夫です。どなたも、好きこのんでわたくしに声をかけたりなどしませんわ」
「ああぁ……。もう、そこが間違ってる!」
サジェスは先ほどのキキョウのように天を仰いだ。それから、溜め息まじりにこちらを見つめる。
――あのときのような瞳で。反射で、アイリスは黙り込んでしまった。
手袋をはめたサジェスの指が頬を撫で、夏椿を飾る耳元に触れる。心臓が跳ねて、身じろぎすると、目の前の夜の化身のような騎士に抱きしめられた。
「っ……殿下? どう――」
「十五歳の誕生日おめでとう、アイリス。とにかく、君のデビュタントに俺が不在だなんて許せなくて、王城から翔んで来たんだ」
「!! やっぱり!? だめじゃないですか。それは禁じられてると、二年前にあれほど仰ってたのに」
腕で押し、ぷは、と息を吸えるだけの余白を確保しての諌言。サジェスは「そうだな」と、けろりと受け流した。
「陛下からお叱りがあるのでは」
「構わない」
「わたくしが構います。そもそも、お祝いに来ていただけたのは光栄ですが、なぜそこまで」
「…………本気で『それ』を訊くのか。アイリス」
「殿下?」
そうかそうか。そうだよな、と独りごちるサジェスが心配になり、アイリスは訳がわからないなりに気遣う視線で小首を傾げる。
すると。
止めようがなかった。
やや伏せた王子の睫毛が珍しいな、と見守るうちに距離が近づき、肩を抱きすくめられる。顎を上向けられた。
(!!!!?? ……くち。え!?)
ばくばくばくと心臓が全力疾走で、頬に、耳に熱が集まる。いままで感じたことのない類いの怖さと混乱だった。甘くて。自分が、自分でないような。
ほんの一瞬の柔らかさを残し、王子の顔が離れる。切なげに瞳を細める。
――――直感でわかってしまった。
だめ。それは、だめです。言っては……――!
心の叫びはもちろん届かない。
サジェスは、口をひらいてしまった。
「俺の妃になってほしい。アイリス。俺は、ずっと、君だけが………………っ!?」
パアン!
夜風に、こともあろうに第一王子殿下の頬を張る音が高らかに響き渡った。
はぁ、はぁと息を切らせるアイリスが震えながら、すさまじい不敬を働いた右手を抱えて、ぽろり、と涙をこぼす。それを拭いもせず。
「――……お断りします。聞かなかったことに、いたします!!」
叩きつけるように一声。
立ち上がり、驚くほどの俊敏さで踵を返し、ホールの近くへ走り去った。
「アイリス、探した。どうし……えっ?」
光を背に、庭へ降り立とうとするルピナスを見つけて、そのまま駆け寄る。
慌てふためく弟に「ごめん」と呟くと、ふらりと視界が傾いだ。
暗転。
――――――――
どうして。
どうして?
疑問が逆巻く。
胸の痛みと、抑えがたいよろこびに蓋をする。
そこで、意識が途切れた。