10 深まる気持ち
「え? 令嬢がたが……?」
驚き、アイリスは目をみはった。
* * *
あれから二日。
体力を回復させるため、ずっと安静にしていたが、気持ちのよいからりとした晴天に誘われて自然と床を離れた。
これなら、母とルピナスが暮らす棟の食堂まで行けそうだと判断した早朝。塔を出たところの庭で、黙々と剣の鍛練に励むルピナスと出会う。
「「あ」」
二人同時に呟き、汗ばんだ前髪をかきあげたルピナスが先に口をひらいた。
「おはようアイリス」
「おはよう。早いね。いつも?」
「うん。騎士団では、ぺーぺーだから。とにかく基礎体力と筋力が絶望的に足りない」
「それは……仕方ないわ。あなた、まだ十四歳だもの。その点、あのかたたちって」
アイリスは、以前訪れた修練場をつぶさに思い出した。
彼らは控えめに言って筋骨隆々。鍛え上げられた戦闘集団だった。
(……もうちょっと、かかるんじゃないかしら)
木陰の草地に胡座をかく弟にならい、隣にそっと腰を下ろす。両膝を立てて、薄荷色のサマードレスの裾がはためかぬよう、しっかりと押さえる。
膝頭に寄りかかり、じっと弟を眺めた。
――まだ、自分とたいして変わらない。
さすがに少し、日に焼けた。きりりとした気もするが、衣装の取り替えっこは可能だろう。(※おそらく、ひどく嫌がられるが)
他愛もない想像を働かせてくすり、と笑う姉に、ルピナスは口の端を下げた。
「なに。途中で話すの止めるの、気になる」
「大したことじゃないわ。ふふっ。ルピナスは、ルピナスだなぁって」
「そりゃそうだよ。……っと!」
ざく、と、手にした木剣を地面に突き立て、ルピナスは機敏な仕草で立ち上がった。左手をチュニックの裾で拭い、アイリスにとってちょうどいい位置に差し出す。「朝食だろう? 私もまだだ。付き合う」
――光栄に存じます、と、軽口で応じたアイリスは、ちょっぴり男の子っぽくなった弟の手にみずからの手を重ねた。難なく引き上げられ、ふわりと視界が高くなる。二人、並んで歩き出した。
気の早い蝉が鳴き始めている。夏盛り。
(……今日も暑くなりそう。できれば差し入れに行きたいな。どうしよう。侍女に託けようかしら)
細い木々の間を抜けると、真っ白な朝日に直に照らされる。気持ちは良いが、すでに陽射しは熱線そのものだ。
ほかの石造りの棟と異なり、王都風だという白い漆喰の壁の居住棟の重厚な木の扉はひらかれている。人工水路の橋を渡り、衛兵からの敬礼を受けた双子はするりと屋内の影に身を滑らせた。ふぅ、と、どちらからともなく息をつく。
「そう言えばさ」
「うん?」
一階のつきあたり。
食堂の辺りは、食器がぶつかる音や棚を開閉する音、料理人や給仕の者が立ち働く気配に満ちている。
離れの塔にはない「普通の生活の空気」が慕わしく、頬をほころばせていたアイリスは、台詞を途切らせた弟の横顔を見つめた。
ルピナスは、けろっとした顔で続けた。
「いっつも訓練を見に来てた“日傘組”。解散したみたいだ。きれいさっぱり、来なくなったよ」
――――――――――
「日傘連合? あぁ、見ないな。昨日から」
(連合……)
おかしい。組織化している。
突っ込みたい衝動をかろうじて抑えたアイリスは、「どうぞ」と微笑み、つめたい果実水の小瓶を王子に手渡した。
今朝は迷った末、ふたたび騎士団第一隊まで差し入れに来てしまった。
希望の品目と数だけ伝え、あとは厨房に一任したため、昼前に塔まで届けられた大荷物を見たときは、それなりに自分の甘さを痛感した。
持ち手のない厳重な保冷箱。
それが二つ。
さすがに侍女たちには持たせられず、今日は公邸警護の兵を二人借り受けている。
彼らは気さくで、嫌な顔一つせず、軽々とそれらを抱えて付き従ってくれた。
第一隊の騎士たちの歓声と礼の声が轟いたあと、保冷魔法を効かせた箱から果実水は次々に消えていった。
ちょうど休憩中だったのが幸いし、各自で一斉に取りに来てくれたのも助かる。
修練場を日向にのぞむ、長回廊の屋根の下。
いつぞやと同じ場所で、サジェスとルピナスだけが留まっている。
アイリスは箱から取り出した瓶の水滴を布で拭い、はい、と弟にも渡した。
「何か、騎士団で注意を?」
「いや。そんなことはない。彼女らの家の意向ではないかな」
「殿下。そこ、どいていただけますか。近いです」
瓶を片手に、ぐいぐいと脇腹のあたりを押すルピナスに微動だにせず、サジェスがにこにことアイリスに迫る。
「え、あの」
後ずさりした拍子にひんやりとした石の壁が背に当たり、アイリスは長身の王子を見上げた。布を握る両手を胸元に寄せ、なんとなく防御体勢となる。
とっくに果実水を飲み終えた王子は、嬉々とアイリスの顔の横に左手を添えた。うん。近い。
珍しくどぎまぎとし始めた公爵令嬢に、サジェスは相好を崩した。が、すばやく声を落とす。ささやくように、早口に言ってのけた。
「――俺は、君が成人するのをずっと待ってたわけだから。令嬢がたがどれだけ群れて徒党を組もうと、意味なんかない。わかった?」
「うわ、殿下。ちょ……、人前にも程がありますし、姉上が固まってます。勘弁してください!!」
喉を潤すのも後回し。ぎょっとしたルピナスが、遠慮なく王子の服を引っ張る。
サジェスは、やれやれと視線を流した。
「うるさいなぁ、ルピナスは」
「あ、あの。殿下?」
「ん?」
ぴたり、と、紫の瞳と黒い瞳が同時にこちらに向けられる。アイリスは、おずおずと尋ねた。
いま現在、自分が抱える最大の問題。それは、目の前で不穏な迫りかたをする馴染みの殿下ではなく。
「家の問題とは。……令嬢がたのこと、何かご存じですか?」
『何か』には当然、先日の茶会の顛末も含まれる。
不当な吊し上げを食らったこと。ルシエラたちをジェイド家の夜会に招かぬよう進言したのが自分であること。
――形はどうあれ、彼女たちが貴方に恋い焦がれていることを。
(どこまでご存知なのかしら)
緊張の面持ちで言葉を待つ少女に、サジェスは一瞬ぽかん、と呆けたが、やがて、滅多にないくらい甘く微笑んでみせた。
相変わらず、不穏。
「さぁ。なんでも、夏風邪が大流行したのだとか。グレアルド侯爵令嬢は、父親に連れられて東のエスト領まで行ってくるそうだよ。侯爵から手紙が来た」
「お詳しいんですね?」
「……やきもちかな、それは。だとしたら相手は髭面のグレアルド侯爵で、俺としては複雑なんだが」
「! やきもちなんて」
「はい、そこまで!! 殿下も! 変な絡みかたしないでください。戻りますよ」
「おっと」
ガチャン! と、やや乱暴に空き瓶を箱に戻したルピナスが実力行使で二人の間に割って入った。
背に庇われた形になるアイリスが二の句を継げずにいる間に、ずんずんとサジェスを押して行ってしまう。
――――やきもち。
はい。ちょっとだけ、やきました。
(ルシエラ様に)
口を引き結び、その本心だけはこぼさず守り通す。
ひらひらと手を振るサジェスから目を離せないことと、頬が勝手に熱くなってしまうことには、困ったことに、随分あとから気がついた。